ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

今日から2010年の後半期

今日は7月1日。今年も後半期に入りました。
昨日は、思いがけず、家で不定期にしている仕事のグレードアップのお知らせが届き、少し元気が出てきました。始めて11年ぐらいになりますが、いくら若い頃の貯金と主人の理解で勉強をしているとはいえ、何かしなければ、本代や交通費やコピー代などが自分持ちでなくなるため、ほそぼそと続けてきたものです。
周囲の一人は、この仕事の話を聞いて、明らかに嘲笑しました。「そんなことやっていたって、業績にもならないし、社会的地位もないし」という意味らしいのです。ただ、賃金で考えるならば、この仕事と外での仕事は、月単位で同額です。ならば、無理に外に出てみても、今の主人の健康状態や勤務体制では家庭に負担がかかるのみで、かえって支出も多くなり、自分の勉強も遅れ気味になるので、こういう選択をしたまでです。
しかし、表向きの「社会的地位」ではうかがえない、こういう地味な仕事こそが、案外世の中を見る目を養う物だとも感じています。
その人は「私は教室で、学生の前ではヒーローだから」と自画自讃し、「気分転換にもなるから、外で教えたら」と私に言ったのです。でも、教師をしていた頃の自分を振り返ってみて、どうひいき目にみても、自分を学生の前で「ヒロイン」だと思えた試しがなく、毎回の授業は、「気分転換」どころか、責任重大だと試行錯誤の連続でした。むしろ、学生さんから学び、教えられることが多く、自分の知らない世界に触れる畏れのようなものを感じていました。こちらも生身の人間ですが、学生さんだって、毎回、表情が違いますし、同じことを毎年教えていたとしても、理解度が違います。また、クラスに誰が同席するかで、雰囲気が相当変わることも、身にしみています。
その人は、高校生の頃から研究者を目指していたとのことなので、私とは出発点から違います。私はと言えば、幼稚園の頃、親戚の集まりで、祖父母の兄弟達が大学関係者だったこともあり、学部長選などの権力闘争がいかに恐ろしいものかを聞かされて、大学とは怖いところだ、というイメージがすっかり染みついてしまっているのです。勉強は自分で一生涯続けるものであって、大学に残るのは、相当の特別な能力の持ち主のみ、特に女性は、単に大学院に行っても、かえって不幸になることが多い、とモノの本でも読みました。「うちの娘は、勉強が好きでよくできるから、大学に残って学者にしたい」という母親の相談を受けた、ある著名な大学教授の回答です。
もっともそれは、私の学生時代以前の話であって、昨今は、環境も随分変わりました。女性を院生や教員に採用すると、大学の補助金がつくからということで、女性が増えたケースもよく聞きます。問題は、そういう表に出ない側面を、当事者がどこまで理解して振る舞うかということです。
上記の人が以前言った言葉でぐさっときたのは、「学生達、あんなに勉強ができないのに、どうして幸せそうにしているんだろう」ということでした。勉強ができれば幸せになるなんて、下手な受験雑誌の宣伝じゃあるまいし、非常に短絡的で浅薄だとびっくりしました。その感覚でいくなら、「ユーリさんって、社会的地位もないのに、どうして平気なんだろう」ということになるでしょう。
多少、人よりも勉強ができることが、必ずしも、聡明さや賢さや知恵深さの証明にはならない上、「幸せ」の保障にもならないことぐらい、もうそろそろわかってもいいお年頃だと思ったのですが。(私より年上の人です。)
私なりの乏しい価値観では、こういう女性が社会進出すると、どういう恐ろしいことになるか、と思います。父性あるいは男性の論理に歩調を合わせることが、女性の地位向上に結びつくのではなく、女性ならではの感性と能力で、男性ができない、しない分野に視点を向けて開拓することが重要ではないでしょうか。
私は私のペースで、自分の人生段階の状態に応じて、無理なく歩を進めていけたならば、と考えています。