ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ディーナ・ヨッフェのリサイタル

昨日の午後は、西宮の兵庫県立芸術文化センターでのディーナ・ヨッフェのピアノ・リサイタルへ行きました(参照:2010年1月14日付「ユーリの部屋」)。
オール・ショパンのプログラムで、これはショパン生誕200周年記念の一環です。このホールでは、他にも5月下旬にダン・タイソン、クリスチャン・ツィメルマンなどがショパンを奏されるそうです。
ダン・タイソンの演奏会には、1998年に大阪で一度行ったことがあります。彼は、1980年のショパン・コンクール第一位。アジア人初の快挙、しかも、ベトナムという戦時下で練習を続けた経歴の持ち主。ポーランド出身のツィメルマンについては、CDを持っていますが、18才の時、1975年のショパン・コンクールで第一位。この時に第二位だったのが旧ソ連ラトヴィアのリガ出身のヨッフェ氏でした。この時彼女は22才。時期をずらして同じ会場で、同じコンクールの覇者がショパンを演奏するとは、演奏家個人としては複雑な心理があるのではないか、などと思ってしまうのですが、当時の時代背景なども自分なりに理解が深まるにつれ、国際音楽コンクールの政治性(共産圏と自由主義圏の対立、あるいは出自、例えば、女性奏者、ユダヤ系かどうか、非ヨーロッパ出身など)が絡む問題を、より深刻なものとして考えるようになってきました。
今回も、実は一階席の前方左側という非常にいい席でもあったのですが、チケットはA席でなんと3000円。B席はもっと安かったことでしょう。
普段はあまり見かけないような若い人や子どもも来ていたことはよかったものの、実力やご経歴を考えれば、いくら何でも安すぎではないか、と思ってしまいました。日本国内での知名度と集客力との兼ね合いでこうなったとしたならば、いかにも残念でした。それも、一階席はまずまず埋まっていたものの、舞台に向かって右側の二階席や三階席はガラガラで、驚きました。
こういうことが、芸術の世界では起こりうるのだということを、小学生の時からピアノの先生に聞いていた私は、本当に身震いする思いで人生を捉えていました。いえ、今でもです!
案の定、せっかくの安定した温かい音色の演奏であったにもかかわらず、客層全体が、先日の同会場でのアンネ・ゾフィー・ムターの演奏会(参照:2010年4月18日付「ユーリの部屋」)とはまるで違って、遠慮無しの咳き込みが、いつまでもあちらこちらから聞こえ、ピアノ・ソナタ第3番の一楽章でなぜか場違いの拍手が起こってしまったり、まだ終わりの音の余韻として奏者が腕を高く上げたままなのに拍手してしまうなど、全体としてざわついてお気楽な感じでした。つまり、耳をそば立てて、真剣に緊張感をもって聴くというよりは、ショパンの曲そのものを気軽に楽しもう、という雰囲気だったのです。
一方、私にとっては実は15年ぶりの再会。この15年間のさまざまな人生行路や思い出などが交錯した、非常に意義深いひとときでした。
もし、1995年に愛知県立芸術大学で開かれた公開レッスンを、当時習っていた名誉教授のピアノの先生から「ヨッフェが来るのよ!」と、うれしそうにご紹介されなかったら、私も一般感覚として、今でも(ディーナ・ヨッフェって誰?)だったかもしれないのです。ヨッフェ先生は、ヴァイオリニストの夫君とご一緒に、ここで5年ほど客員教授を務められました。
マレーシアから帰国して、まだ今よりは随分活気のあったその頃の日本社会に、いかに順応できるか、今後はどうしていったらいいのか、大きな不安を抱えていた私にとって、この公開レッスンは、今でも忘れられず、よく覚えています。何よりもまず、20年前のショパン・コンクールで二位という方が、東京ではなく、どういう経緯でか、わざわざ名古屋に来られたということも驚きでした。(もちろん、県芸大が堅実で水準が高いことは広く知られていましたが。)
大学で開かれた公開レッスンの当日、通訳付のロシア語で「ダー、ダー」などと熱心に情熱を込めて、二人の県芸大ピアノ科のお嬢さん達をモデルに、舞台でレッスンされました。課題曲は、今回も最後に弾かれたショパンのバラード第4番。一人は、緊張のあまりか思うように弾けず、充分に練習がこなせなかったようで、途中で投げ出すような態度に。それを、温かくお母さんのような愛情でなだめ、包み込み、励まし、何とか続けさせようとされていました。二人目は、自信を持って演奏していましたが、それでも、最初の数小節を何度もたっぷり時間をかけて、音出しの基本からやり直しさせるような厳しいレッスンでした。「花のつぼみがゆっくり開くようなイメージで」とおっしゃっていたことを覚えています。
CDが安く出回り、インターネット情報が発達した今なら何でもないことであっても、あの頃、その光景にショックを受けた私は、音楽の世界の奥深さと、それまで自分が置かれていた環境の大きなギャップに目覚めたというわけです。でも、大変いい経験でした。
ピアノの世界に少しでも身を置いていらっしゃる方ならば、ディーナ・ヨッフェを気楽に楽しもうなんて態度がいかに失礼なことか、よくご承知済みだろうとは思うのですが、価値観の多様化、そして、私が感じる限りでは、演奏会もコンクールの開催上も、ピアノよりもヴァイオリンの方がどこか注目度が高いような今の日本で、また、中国出身の若手男性ピアニストがもてはやされる新たな風潮で、年齢的にも円熟の時を迎えた世界一流のピアニストがピアノ・リサイタルを開催することの意味、そしてピアノ界の盛衰などを、改めて考えさせられたのです。

曲目:
ノクターン ヘ長調 op.15-1
ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 op.58
即興曲 第1番 変イ長調 op.29
幻想即興曲 嬰ハ短調 op.66
3つのマズルカイ短調/変イ長調/嬰へ短調 op.59-1, 59-2, 59-3)
4つのマズルカト長調/ト短調/ハ長調/イ短調 op.67-1, 67-2, 67-3, 67-4)
バラード 第4番 へ短調 op.52


アンコール
バッハ:パルティータよりサラバンド
ショパンノクターン op.55-1

強いて言えば「4つのマズルカ」がいささかポピュラーではないかもしれませんが、その他はどれも有名な曲ばかりで、プログラムとしては贅沢そのもの。アンコールは、心に染みいるような静かな演奏。ゆったりとした黒のふんわりとしたパンツスタイルの衣装で、ふくよかでぽっちゃりしたヨッフェ先生によくお似合いでした。
ショパンが江戸時代に相当する時代に生きた作曲家だったのだということをつい忘れてしまうほど、美しく響く洗練された甘美なリリシズム。遙か遠いポーランドやパリやマジョルカ島での光景を懐かしくも前方に彷彿とさせるような旋律。プリズムのように複雑な音の組み合わせとリズムの響き合い。39才という短い人生ながらも、悲嘆と喜びと愛情そして華やかな社交界での陰影が交錯する人生模様が濃縮されたような深さ。ショパンが嫌いな人なんて、世界中探してもほとんどいないだろうと思いますが、今でも誰をも惹きつけてやまないその魅力ある曲一つ一つを、どのように新しく毎回の舞台で提示し続けるか、これは並大抵の仕事ではないと想像します。
それをいともやすやすと弾きのけてしまわれたのがヨッフェ先生。もっとも、数え切れないほど世界各地で弾き続け、教え続け、コンクールの審査員として聞き続けてこられた曲ばかりなのでしょうが、後半では、歌声が聞こえてきたような錯覚を覚えるほどに、幸福感に満ちた演奏をされました。全体として、音は少し甘めで、タッチが深くやわらかく、テンポもどちらかと言えばゆったりめ。奇をてらったり、派手なパフォーマンスのない正統な奏法で、「3つのマズルカ」の二曲目で左手のミスと乱れがあった他は、大変チャーミングですばらしい演奏だったと思います。
だからなのか、私にはどこか、ヨッフェ先生も前半は特に、お客さんの態度にあまり満足していないそぶりだったように見えました。弾き終わるとさっさと軽くお辞儀をして袖口に戻って行かれたり、カーテンコールも一回か二回。私の時計では、アンコールの二曲目が終わったのが3時50分頃でしたが、その時には立ち上がって帰って行く人が目立ち、せっかくのCDサイン会も、このホールでこれまで見たことのないほど人が少なく、4時15分にはあっけなくも終わってしまいました。その代わり、サイン会には舞台衣装のまま、ロシア語か何かで気さくにおしゃべりをしながら、リラックスした風に応じていらっしゃいました。私も記念に、2010年2月に出されたばかりのショパンのCDを購入し、サインをいただきましたが、とってもあったかくて親しみのある印象でした。

アンコールのノクターンは、ジェシカ・スターンをモデルとするDVDの『ピースメーカー』を思い起こさせました(参照:2008年5月10日・5月16日付「ユーリの部屋」)。ニューヨークで爆弾テロ事件を起こすことになるヨーロッパ某国の男性が、うらぶれた部屋で少女に教え、自分でも弾いていた曲なのです。
そこでふと閃いたのが、ヨッフェ氏はユダヤ系ではないのか、ということ。15年前には、そんなことを考える余裕すらありませんでしたが、ショパン・コンクールでの二位といい、前年のシューマン国際コンクール二位といい、1991年に崩壊したソ連ラトビアをあっさり離れ、1995年から5年の長きにわたって名古屋の大学で教えていらしたことといい、これは何かあるのではないか、と。今回の来日も、何か関連があるのではないだろうか....。
プログラムには何も書いてありませんでしたが、この度の日本ツアーは、昨日の西宮を初日として、今日の名古屋・しらかわホール、5月1日の藤沢、2日の東京文化会館での演奏会というスケジュール。東京では、日本・イスラエル親善協会のバックがあるとのこと。過去のギドン・クレーメルとの共演経験も、ラトビアのリガ出身ユダヤ系コネクションという意味が含まれていると思います。(ギドン・クレーメルについては、2008年9月23日・9月26日付「ユーリの部屋」を参照のこと)
調べてみると、やはり、1989年に夫君とイスラエルに移住されていたのでした。そして、1989年から1996年まで(少し名古屋時代とかぶっていますが)、イスラエルのルービン音楽アカデミーで教鞭をとられていたようです。現在は、ドイツのアントン・ルービンシュタイン国際アカデミー教授でいらっしゃいますが、ウクライナオデッサ出身で、オイストラフ門下のヴァイオリニストの夫君ミハイル・ワイマン氏ともども、華々しいキャリアの反面、旧ソ連でのユダヤ人政策には翻弄される思いをされたようです。
知る人ぞ知る、なのだろうけれど、やっぱり、という....。あの喜びに溢れる温かい演奏の源泉は、生まれつきの人柄によるという以上に、むしろ、このような苛酷な運命と背景にこそ求められるべきなのではないか、と考えた次第です。ホームページでショパン・コンクール時代の写真を見てみましたが、いかにも時代がかった旧共産圏ならではの野暮ったいデザイン。ヨッフェ先生ご自身も、当時よりは今の方が断然、明るく愛らしくて、洗練された印象です。よい年齢の積み重ねをされているなあ、と思うと同時に、イスラエルでの現状から、いつでも手を抜くことの出来ない厳しい鍛錬と覚悟を強いられるところに、演奏の秘訣を垣間見た思いでした。
東京での演奏会は、チケットも少し高めです。よい時になることを遠くより祈念申し上げます。