ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

平成22年2月22日

今日は、平成22年2月22日です。午後2時22分22秒には何をしているか、という話題が出ました。もちろん、タイマーをセットしてあります。
実は、近くの駅で「22.2.22.2.22」という切符を販売するそうです。「2月2日」分の切符も余っているので販売中、というアナウンスもありました。なんとものどかで、よろしい、ですね。
このところ、夫の仕事のプロジェクトが異常事態になり、とんでもない生活になっています。食事はおろか、薬も飲まずに、家にも帰らず、職場にこもっているようです。ただでさえ、大変な難病を抱えているのに、何をやっているのか、とても心配なので、何度も会社に電話をかけて、「かえれコール」をしています。帰宅時間、起床時間、就寝時間など、すべてメモして「訴訟」に備えてあります!
その一方で、家でお留守番している私にとっては、待つ時間があり余るためか、来月の学会発表の準備が、いつになく進んでいます。パワーポイントのおかげで、写真や資料のイメージ提示が楽になり、助かります。作っている間が一番楽しかったりして....。ただ、時間範囲内におさめるには、作るだけ作っておき、後で削る作業が必要です。
文字だけのレジュメだと、こちらなりの‘気遣い’や‘工夫’も知らずに、一方的に「はい、それでは論文になりません」「先行研究を見ていませんね」「こっちがわかるような発表しろ!コメントのしようがないんだよね」「いったい、何が言いたくて、そんな研究しているんですか」「キリスト教なんて、本屋さんに行けば、わかるじゃない」「英語はぁ、ちゃんとぉ、ネイティヴチェックにぃ、出してぇ」「私はぁ、社会的地位がぁ、高いからぁ」などと、わけのわからないコメント(と呼べるのかどうか?)を出す人が、必ずいるんです。分野の違う人達からは、「そこ、相当、レベル低いんじゃない?」と、呆れ顔。「一般社会でやっていけない人が、大学の研究者になるんだな、よくわかった」とも。
20年間も指導教官なしで手探りで一人で勉強してきて、先行研究を見ていないはずがない、のに....。
口頭発表と論文とは、そもそも形態が違う。一年か二年に一度会うだけの、たかだか30分程度のレジュメだけ見て「論文になりません」と、専門分野も全く異なり、指導教官でもないのに、したり顔で注意してくるなんて、どういう非常識な....。
「本屋さんでわかる」程度のキリスト教なら、どうして一生かけて研究する人々が、古今東西、後を絶たなかったのか?
英語は30年以上、ドイツ語もスペイン語もかれこれ20数年以上、毎日のように勉強していますけど。(これからまだまだ、上級試験を受けるつもり。邪魔しないでね。)
「人前で指導してやろう!」「私は社会的地位があって、えらいのよ!」という態度を匂わせながら(と私には感じられる)、なので、非常にタチが悪いです。そういう人に限って、私の背景や事情(というほどでもないが)を聞くと、ころっと態度を変えるのです。こういうタイプは、断固、自分の周囲から排除すべし!
実は、本件だけでA4ワードに1000ページ分ぐらいの資料が集まったので、もちろん、よそでも発表させてもらいます。このところ、ある先生に長年考えてきたことを電話で相談してみたら、あっさり「それはいいんじゃないですか」と言われたので、やっと方針がすっきり決まり、気分爽快です。
やはり、自分が居心地よく感じられるところで、伸び伸びと力を発揮して、人々のお役に立てるという喜びを味わえる道を探すことが、何より肝要だと思います。そして、90歳ぐらいまでの寿命だと換算して、80代までは毎年、何回か発表を続けられるぐらいの余力を蓄えておきたいものです。(緒方貞子先生を見習うべし!)
その時になってもまだ、「はい、だからあなたは、いつまでたっても駄目なのよ」「こっちが理解できる内容の発表をしろ!」と言われていたりして....。