ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

結果は出なくてもよろしい!

結局のところ、主人用と私のマフラーが色違いで二本ずつできあがり、その他にも練習用の毛糸で編み込みを作り、今は小物入れを作り始めたところです。
もちろん、インターネットの立ち上げ時間や、マレー語と英語の必要なニュース記事をワードに落とす時間を使っているのです。いつの間にか、こんなにできてしまいました。ふうっ、これって意味あるんでしょうか?
ドイツ語とスペイン語をラジオで聴いている間も、編み物をすると眠くもならず、頭の活性化にもつながるような気がしています。五嶋みどりさんが、暇さえあれば編み物をしていた意味が、ようやくわかりました。一方で、借りてきた本を6冊積み上げて、少しずつ交互に読んでいます。毎日大変忙しいですが、こうでもしなければ視野が極度に狭くなり、これ以上...だからです。
「戦略」とか「競争に勝つ」とか「敵」だとか、勇ましい用語を使ってキャリア形成をする人達(特に女性)を見ると、仮に冗談として使っているとしても、それだけに、とても怖いと感じます。所詮、私とは関係のないことだわ、と思います。そういう人達から見れば、(あの人、もう駄目ね。相手にもなりません!)なのでしょう。実際、そういうことを言ってきた人が何人かいます。「私は○○なのよ。あなた、何やってるの?」という...。いや、本当ですよ、これ。
夫に言わせると、「そんな人と一緒にされたくありません」。
でもなぜか、そういう人に限って、人生を謳歌しているように見えてしまうんですよね。向こうから見れば、確かにこちらは、何やっているのかわからないでしょうからねぇ。

不条理というか理不尽さということについて、励ましになるのはカフカの『変身』(参照:2009年9月28日付「ユーリの部屋」)。なんだかんだと言っても、人は外面で判断してしまうので、内側よりも外面を先に整えよ、というのが処世術らしいです。では、なぜ、カフカが今でも読み継がれるのか?そもそも、そういう‘失礼な’人達は、カフカなんて知らないのではないか?それでも、外面が調えば、何を言っても許されるのだろうか?
古屋安雄氏の著書を読んでいたら、高等教育を受ける層の基準からすれば、主人の伯父さん達も私の両親も皆、世代の上では「少数エリート」に属するのだと知りました。でも、そんな実感、夫婦共々まったくないんです。それに、そもそも、エリートって何なんだろうか。そういうレッテル付けそのものが、問題をはらんでいるとしか思えないのですが。
もう面倒なので、余計なことは考えず、自分のなすべきことだけに集中します。結果は、出なくてもよろしい!