ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人が人を裁くこと

昨夜のETV特集で、冤罪について見ました。何とも重苦しいテーマで、今朝は午前中ずっと沈鬱な気持ちが続きました。これもまた人間社会の一側面として、見逃せない問題だと思います。
クアラルンプールのブリティッシュカウンシルで英語を勉強していた頃、ディスカッションには必ずといっていいほど、「死刑の是非について」という話題が挙げられました。クラスの誰もが、自分はあたかも犯罪とは一切無関係であるかのように、いろいろ喋っていて、そちらの方にむしろ圧倒させられました。マレーシアでもシンガポールでも、麻薬所持だけで極刑だということは、飛行機の中でもアナウンスされますし、宗教上の規定も厳しく、「悪いヤツは処罰が当たり前」という建前だからでしょうか。
しかしながら、「人が人を裁くことの困難さと限界性」を考えるならば、この話題について、それほどツルツルことばが出てくる方が不思議です。
もっとも、「疑わしきは罰せず」が昨今の原則だそうですし、冤罪や死刑囚に対しては、少なからず、市民グループのような支援団体や個人が現れます。刑務所の中の人達に、手紙を書いて励ましたり、お金や身の回りのものを差し入れしたりするのだそうです。
その一方で、某法務大臣は、どんどん判子を押して死刑囚を処罰していたようです。
以前も書いたように、小学校一年の時の「給食マーガリン事件」で、やってもいないのに自ら濡れ衣を買って出たほど無防備な私なので(参照:2009年10月23日付「ユーリの部屋」)、こういう問題には、法的解釈のみならず、心理的背景も必要だと思っています。
人権上、冤罪はもちろん回避されなければなりませんが、素朴な疑問として脳裏を去らないのは、訴訟で無罪が確定したとしても、それでは事件の真犯人は一体誰なのかが不明なままだということです。被害者とその家族にとっては、迷惑この上ない話だろうと思うのです。
上記の「給食マーガリン事件」、結局は誰がやったことなのか、未だに私は知りません。また、知る必要もないことです。ただ、あの時の担任の女の先生から受けた恐怖心だけは、今も残っています。話が込み入っているのは、その先生は書家でもあり、その筋で、小学校低学年の私をかなり贔屓にしていたということです。
一体、人が人として当たり前に生きていく上で、なおかつ、まっとうな社会的信用を得るには、どれほどの努力を必要とするのでしょうか。