ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

矢内原忠雄全集などから

今日は、マレーシア・シンガポールへのリサーチ旅行の準備をまとめておこう、と決心していたのに、結局のところ、スーツケースを出してとりあえず必要なものを放り込み、主人との連絡用にミニ・パソコンの接続作業をしてもらって終わりになってしまいました。
というのは、矢内原忠雄全集岩波書店)の計29巻から、はさみこんである月報をすべて読み(部分的に紛失された巻もあり)、2,3巻分を通して読んでしまったからです。そこでやめておけばいいのに、塚本虎二著作集聖書知識社)4巻分の一部と、関根正雄著作集新地書房)2巻分の一部をつまみ読み、ついでに、月本昭男先生の『詩篇の思想と信仰Ⅰ 第1篇から第25篇まで新教出版社2003年)まで部分的に目を通してしまいました。まったく、こんなことしている場合じゃない、という時に限って、いわゆる積ん読本が読みたくなるんですね。いわば、試験前になると、小説が読みたくなる学生の気分になぞらえることができます。2006年と2008年のいずれも12月に、あしながおじさまから送っていただいたものばかりです。
これでだいたい、無教会の代表的な著作の大筋に目を通せたかというところです。こういうものは、断片的に読む、あるいは、自分の都合の良い箇所だけ、パソコン検索から引用するものではなく、ある程度まとめて一気に読み切る方が流れがわかっていいようです。塚本虎二氏の新約解釈は、その独特の個性もあいまって、着眼点が非常にユニークかつユーモラスですが、その師である内村鑑三氏との人的対立の経緯も、今回の読書作業を通して、おおよそ察することができたように思います。また、関根正雄氏に関しては、またいずれ時を置いて改めて読むことになろうかと思います。
今日のところは、矢内原忠雄氏の人間味あふれる情熱とすぐれた学識とご家族も含めた周囲の方々との関わりなどに夢中になったという簡単なご報告で締めたいと思います。
一言でいえば、明治生まれの波瀾万丈かつ気骨みなぎる人生に対して、内的必然性および外的牽引力から著作集に引き込まれてしまったということです。東大教授および東大総長という肩書きで、ただ敬愛し見上げるだけでは、かえって理解を表面的な一面的なものに限定してしまい、都合よく持ち上げているかのようで、むしろ失礼なのかもしれません。現職にある時、尊敬はされても謹厳でどこか煙たく、親しみの持てる方ではなかったとも月報で読みましたが、私が今回の一連の読書作業で触れた限りでは、実際には、いろいろな人々との濃淡さまざまな関わりの中で、欠点も弱点も含めて、多種多様な側面と役割を持った魅力的な人柄と優れた才能と深い信仰の持ち主だったように思います。時には、ほろりとさせられるようなエピソードも幾つかあります。
例えば、ワーズワースの詩にちなんだという「われらは七人」の講演記録は、矢内原氏の孤軍奮闘からくる寂寥感と同時に、初期の無教会開拓伝道をそれぞれのやり方で共に担う仲間意識や有形無形の連帯感を彷彿とさせます。また、世間で脚光を浴びることの比較的少ないご次男の光雄氏との病床での最後のやりとりは、厳格ではあったものの、非常に愛情深い父親の姿をあらわにしており、全巻通して総合的に読み取らなければ、解釈を誤るのではないかとさえ思われました。
怖い先生だったと、あちらこちらで見かけますが、あのような感じの教授は、私の学部時代ならば、大学では普通というか、それこそ学究肌で信頼できる本物の学者の姿だとずっと思っていました。現に、私の学部時代の指導教官がそういうタイプでした。今でもかくしゃくとされ、毛筆で和歌のお年賀状をくださる先生です。(ただし、大学院は違っていて、誠にがっかりしました。上の学校に進めば進むほど、歳をとればとるほど、がっかりの度合いが増えた印象です。進路選択を誤ったと感じるのは、このような所以です。)今日の夕刊にもありましたが、「今の日本は本当にエリートがいなくなった」という述懐は、実に的確な指摘だと思います。
話を元に戻しますと、講演や講義などの記録の巻は、次々とページをめくる手が止まらなくなるほど、おもしろい読み物でした。なぜおもしろいか、と言えば、私が長年疑問に感じていた事項が、ほとんどもれなく網羅されているため、そして、現在でも続いている議論に対する回答が既に提示されているのを発見したから、です。つまり、「いかに先行研究をきちんと読んでいない人がいるか」を知ってしまったわけです。より重要な点としては、恐らくは、内村鑑三氏の教訓をそのまま実践された文章だったからではないかと思います。繰り返しになりますが、『後世への最大遺物岩波文庫2008年)から再度引用させていただきます(参照:2009年8月31日付「ユーリの部屋」)

・それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。(pp.51-52)
・アノ雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくッつけたような論文を出すから読まないのです。(p.53)

それに関連して、内村鑑三(著)鈴木俊郎(訳)『余は如何にして基督信徒となりし乎岩波文庫 青119−2(1938/1958/2008年第71刷)の「ヨナタン」話も実に痛快で愉快でした。これを読了したのが今年の9月3日ですから、結局、今回は一ヶ月ぐらいかけて,無教会の発起人から第一代継承者そして現在の一部までをざっと読んだことになります。そういえば、先頃亡くなった加藤周一氏の全集発行の岩波書店予告に『余は如何にして基督信徒とならざりしか』が含まれていましたが(2009年9月19日付朝日新聞朝刊)、結局のところ、ルカという洗礼名をもって逝かれたわけですから(参照:2009年4月5日付「ユーリの部屋」)、ルツ子さんならぬ「内村鑑三氏万歳!」といったところでしょうか。
前書に戻りますと、第九章に始まる「余の神学校」(p.183)は、私がこのブログでも度々触れてきたハートフォード神学校を指しています(参照:2008年4月18日付「ユーリの部屋」)。こういうわけで、このエクスカーションのような一連の本読み経験は、実は11月の学会発表の下準備でもあったのです。そして、国際基督教大学の近隣にあるという多摩墓地には、内村家や新渡戸家や三谷家や矢内原家など、とにかく錚々たる方々のお墓があるそうですから、是非立ち寄ってみたいと楽しみにしています。

ところで、私の本の読み方は、図書館から借りたものなら、右手に付箋を握りながら読み通し、一端休めてから、付箋を外しつつノートに取る方法です。場合によっては、必要な箇所をコピーしてファイリングします。一方、送っていただいた本であれ自分で買った本であれ、手元にある限りは、ペンか色鉛筆かシャープペンシルでどんどん線を引き、大事なページには折り目を角につけ、疑問符も含めた書き込みを入れてしまいます。一応は、全ページに目を通して初めて「読みました」と言えるのだろうと思っています。
ついでながら、これまでにこのブログで引用している箇所は、ほとんどすべて、実物か複写に日付印と名前の判子を赤で押してあります。このようにして、証拠を自分なりに記録づけています。
矢内原忠雄全集』も『土曜学校講義』も、貴重本として大切にきれいに読んで、もし古本屋さんに持って行ったとしたら、今でもお値段はつくと思うのですが、残念ながら、本文テクストとの格闘の癖がやめられず、この度もあちらこちら書き込みやラインが入ってしまいました。換言すれば、よそには絶対に流れない刻印です。蔵書を送っていただいた段階で、本の箱も、セロファンの表紙カバーも、変色したり一部ボロボロになったり破れていたものもあったため、かえって「これは私の所有になったんだ」とうれしくて、売りに出す意志は毛頭ありませんでした。
電子版書籍の話が一部実現していますが、テクストを介して著者との生の触れ合いができない点、アナクロの私にとっては、愛着が持てません。場所はとりますが、手元にある以上、やはり本はこうやって自分のものにすべきだろうと思います。
できれば、矢内原忠雄氏ご愛用の聖書も拝見してみたいのですが....。