ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

碩学のことばから (3)

三谷隆正全集 第四巻 世界観・人生観・神の国と地の国岩波書店1965年)について。こちらも、五巻に負けず劣らず、大変おもしろく、ためになるエッセイ集です。この時代の先生方は、単なる学者のみならず、真に教育者であられたなあと、遠き良き日を懐趣とともに感慨深く思います。

・蓋し古来最も偉大なる仕事、随つて又最も愛に富める仕事は、病弱なる人々によつて成就されたことが尠くない。只是等の病弱なる偉人は、自分の病気、自分の健康に屈託して居なかつた。偉なる愛の為めに自分を忘れ、健康を忘れて居つた。彼等は己を虚しくして神の器となつた。(「基督者的教養」『福音之使者』大正八年十、十一、十二月号)p.40
・現代日本の教会の信徒たちは、驚くべく聖書を読まない。聖書以外の宗教書を読まない。一体に読書らしい読書をしない。教職者たちさへ、ろくな読書をしない人が多い。だから彼らは独立の信仰をもたない。一体に精神的に独立してゐない。(「読書に就いて」『日本聖書雑誌』昭和七年三、四月号)p.53
教養を欠く人のいちばんの特色は何であるか。それは粗野である。粗野であるといふことが、教養のない人の特色である。然らば粗野とは何か。粗野の本質は之を一言にして尽し得ると、私は思ふ。曰く、粗野とは隣人に対する人格的敬愛の欠けたるを言ふ。(中略)隣人の安否に温き関心をもつ人、さういふ人は粗野でない人である。然しかゝる心懸けの欠けて居る人は粗野な人である。かゝる人こそ真正々銘の野蛮人といふべきである。(「読書に就いて」『日本聖書雑誌』昭和七年三、四月号)pp.54-55
・即ち教養の本質は、人をして隣人を敬愛するの道を知らしむるにある。人と人とかたみに其人格的尊貴を相重んじ、互に他を人として相いたはるに到ることにある。(中略)教養のための読書は、隣人知識涵養のための読書である。(中略)Homo sum, Humani nihil a me alienum puto.「私は人間である。何事も人間にかゝはる限り、私に縁なきこととは考へない」(ロマの劇詩人テレンチウス) (「読書に就いて」『日本聖書雑誌』昭和七年三、四月号)p.56
・すべてこれらの人間的休戚が、教養のための読書の目標でなければならぬ。わけても同胞人類のすべての文化的努力の跡、殊にその思想と信仰との跡、なべて人類の営み来りし精神生活の跡、これに対し、我等は人として、最大最深の関心を持たざるを得ない。(「読書に就いて」『日本聖書雑誌』昭和七年三、四月号)p.57
・古典を読まずして、健全なる隣人智識を積むことはできない。古典ぬきの教養は、骨ぬきの教養である。古典のつぎに大切なものは、歴史と佳き創作とであると思ふ。(「読書に就いて」『日本聖書雑誌』昭和七年三、四月号)p.58
・大分昔の話であるが、故植村正久先生が神学生達に向つて「日本の伝道者たるものは本居宣長の玉勝間ぐらゐは読んでゐなければいけない」と言はれたといふ話を聞いたことがある。(「本居宣長のパリサイ攻撃」『日本聖書雑誌』昭和十年四、五月号)p.113
・かくの如くして、宣長の古学主義の根柢をなしてゐたところの精神は、パリサイ的形式主義の攻撃、真理に対する素樸純真なる敬虔、これであつた。この精神と気魄とが、人としての宣長の偉大さであり、又かれの学問上の深刻なる独創である。蓋し学的独創とは、素樸純真なる敬虔を以て真理を熱求する所に生れるものである。時代の学的表流がどうあらうと、他人の批評がどうあらうと、たゞ単純素樸に真理そのものを欣求し続ける。その欣求は純真素樸であるがために、時に学問の玄人衆の憫笑を買ふことさへあるかも知れない。然し真に学問を支へ、之に生命を与へ得るものは、一にたゞこの純真素樸なる真理欣求である。そのひたむきなる敬虔である。さうして宣長の学的態度にこの敬虔があつた。これが宣長の持つて居つた最大最深の学的独創である。またかれの感化力のあれ程までに大きかつた原因である。(「本居宣長のパリサイ攻撃」『日本聖書雑誌』昭和十年四、五月号)p.120-121
日本人は日本人たるべし。米国人は米国人たるべし。米国は米国魂を以て福音を米国の血肉たらしむべし。日本人は日本魂を以て日本的基督教を活現すべし。しかする時、基督の福音は真に米国人の血となり、日本人の気魄となるであらう。又しかする時こそ、日本人は米国人を見て心より神を讃美し、米国人は日本人を見て心の底から主を讃めるであらう。(「神の国と地の国」『日本聖書雑誌』昭和七年九月号)p.536

特に、冒頭の「病める人こそ良き仕事を成し遂げた」という逆説は重要だと思います。ただし、その場合、「己を虚しうして事に当たる」という条件がつくことを忘れてはなりません。
また、「教養を欠く粗野な人」の定義とは、自分のことだけ考えている利己的な人という意味で、財産や知識や社会的地位や階層や学歴を指すのではない、という指摘は、昨今、なかなかはっきり言ってくれる人がいなくなったように思います。さらに、国文学科出身の私にとって、学部時代の指導教官が本居宣長の研究で有名でいらしたので、この文章を読んで初めて、自分の経歴に誇りのようなものを感じることができました。

内村鑑三門下のお弟子さん方は、皆それぞれにご立派な方ばかりで、「無教会はハイプロフェッショナルでハイクラスの人達の集まりだから、そもそもユーリさんなんて、場違いだよ。勘違いするなよ」という率直な助言を身にしみて感じます。でも、ロークラスであっても、ハイクラスを見上げながら生きていく方が、多少はましな人間になれるのではないでしょうか。いかに自分が物を知らないかがわかるだけでも、有益です。