ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

世の中はうつりにけりないたづらに

来月上旬、2週間ほどマレーシアとシンガポールへ行くことになり、ここしばらく、その準備にかかっています。
3年ぶりなので、さぞかし風景も変わっていることとは思いますが、気がついたら、19年ものお付き合いになってしまったので、慣れからくる気安さと同時に、知った顔が次々と定年退職されたり、世代交代したり、亡くなったりで、これまでの思い出が重なることに対して、どこか気が重いような感触もあります。
一応ホテルと飛行機を予約してしまえば、あとは古いフィールドノートを見ながら、リサーチ関連の個人連絡をし、細かい旅程を立てて、荷物の準備をするだけなので、多少は安心です。
プロの研究職の方達は、毎週のように各国を飛び回り、会合だの発表だの観測だのに忙しそうです。その合間に論文書きや講義も入るそうです。私なんて、仕事であってもじっくり落ち着きたいタイプなので、いくら今は競争社会だ、それでは乗り遅れる、と叩かれようとも、こればかりは、生まれ直さなければどうしようもないことと、諦めています。
そして11月中旬には東京滞在です。こちらも久しぶりなので、用事をまとめて、少し長めに宿泊することにしました。知り合いの方達ともうまくお目にかかれるとよいのですが。
こういう移動の件は、私よりも主人の方が昔から得意で、今回も頼みもしないのに、パソコンをたたいて2件とも片付けてくれました。主婦が家をしばらく空けるとなれば、夫にも何かと迷惑がかかります。現地での私の行動範囲と活動パターンを把握してもらった方が安心だろうということもあって、やってもらっています。「別に、行動をコントロールするつもりじゃないんだよ。僕の方が慣れているからさぁ」。
以前も書いたかと思いますが、私の場合、自由な時間が多かったはずの独身時代よりも、結婚後の方が、断然マレーシアでのリサーチが楽になりました。まずは、私の取り組んでいるテーマを、物心両面で支えてくれる主人の存在。これは本当に大きいです。滞在時の経験など何もかもそのまま話せるなんて、東南アジアに行ったこともないのに、ありがたい話です。(結婚相手によっては、嫌がる人も中にはいるそうなので。)
それに、マレーシアの友人知人の対応も、結婚前と後とでは、全く違っていることに気づきました。それまでは、(私は私。リサーチ目的の滞在だし、外国人なんだから、自分さえしっかりしていれば、相手の反応なんて関係ない)と思っていましたけれども、これが違うんです。「ミセス」の方が何かと通りがいいです。(多分、「ドクター」や「プロフェッサー」であれば、別の意味でもっと優遇されるのでしょうが、私の言っているのは、本題に入る前に、ちょっとした小話などをしている時や家に招かれた時などのことです。)語弊を恐れずにあえて書くならば、「(独立して家族に対して責任を持っている)人としての保証付き」みたいな感覚なのです。夫の存在を蔭で意識してなのか、より丁重に扱われるようになったと思います。(「若い」ということは、「軽さ」でもあるんですね。)
例えば、10年ほど前に、クアラルンプールでカトリック大司教に面接するよう要請された時にでも、研究の話などをしようものなら「それで、我々をダシに論文を書いて、将来はあなた、教授にでもなりたいんですか?」と言われて、思わずぎょっとしたことがあります。(これは、むこうが悪いのではなく、そういう、人を利用だけするような失礼な研究者が以前いた、ということを意味しているのでしょう。)それ以外はもっぱら、家庭を重視するカトリックらしく、家族について、いろいろ聞かれました。主人のことを言うと、“We pray!”と即座にお答えくださったのも忘れがたい思い出です。それ以降は、話が非常に弾み、その後もわざわざ時間をとって挨拶やおしゃべりをしてくださるようになったことは言うまでもありません。大司教や司祭達だけが使うという小さなチャペルを見せてくださったのも、これが機縁です。
今回も、準備中に、マレーシアの教会関係から3通の郵便物が届き、訪問を連絡すると、大喜びで待っているとお返事が来ました。こういう現地での知り合いの存在は、気分的にもとても重要です。
マレーシアでも、シングルのキャリアウーマンが増えたことでしょうから、今は変わっているかもしれませんが、少なくとも、これまでの私の経験では、家族持ちの方が何かと気遣っていただける、と思います。逆を考えれば、察しはつくかもしれません。リサーチと称してふらりとやってきて、あれこれこちらの国の問題を聞きたがる外国人が一体何者なのか。昔、留学生会館で世界各国からの留学生を見ていて、語学研修生のような20代前半の若い人達なら遊びたい盛りだろうけれども、家庭持ちなら、それほど踏み外したことはしない/できないだろうし、家族への負担も抱えながらこういう研究や勉強をしている人なんだな、という別の尺度からの相手理解という側面もあることを知りました。私の場合ならば、大学の所属は、リサーチの目的である教会の内部事情とは必ずしも直結しませんから、相手を知るためには、もっと「普遍的な」人としての条件を問うた方が、何者かという判断材料になるかもしれません。
ところで、ロンドン大学で博士号を取得した広東系マレーシア人の友人家族が、年末までに永久帰国することになった由、メールをくれました。英国での暮らしは、博士課程の時と今回の仕事との2度で10年ぐらいになるでしょうか。今の英国の印象を尋ねると、「マレーシアでは年齢制限があって駄目だったが、こちらでは、妻は薬剤師の資格を活かしてまた仕事に戻ることができた。息子も、学校でいい友達ができ、博物館も気に入って、さまざまなことを学んだ」という肯定面の一方で、「しかし英国は、昨今、倫理水準が著しく低下してしまった。1990年代からのことだが、かつては精神面でしっかりした基盤を持っていたこの偉大な国が、どうしてこういう状況になってしまったのか、残念で仕方がない」という率直な指摘もありました。私が「それは、旧植民地各国からの移民をたくさん受け入れて、共存のために多文化主義を実践しようとして、価値において妥協をせざるを得ない面が社会的に増えたからではないか」と書くと、「いや、必ずしも移民人口のせいではない。英国人自らが、モラルを失ってしまったのだ」と。
そこで思い出したのが、あしながおじさまから譲っていただいた『三谷隆正全集 第5巻 信仰と生活・書簡・英文・年譜岩波書店1966年)の次の一節です(参照:2008年12月24日付「ユーリの部屋」)。

フランスの某学者曰く、フランスの革命と英国の名誉革命との根本的な差違は英国の革命には清教徒のような、Cromwellの生活に見える、道徳的な改革精神の入ってゐたことであると。英国の革命にはdivineなもの、正義のためにといふ精神があった。それ以来の英国史を辿つて見る時、道徳的筋金が如何に深く、健全さを持つた影響を事業に文化に与へて来たことか。近代の英国を作つたものは、常識の後に道徳的の筋金があつたからである。然しそれを誰が入れたのか。
Cromwellもさうであるが、ピューリタンの歴史に顕著なことは田舎の農夫や鍛冶屋が如何なる迫害にも屈せず信仰を守り続けたことであるBunyanは聖書のみを読んで単純な英語でPilgrim's Progress(天路歴程)を書いた。彼等は小Bunyanとして、小P.P.を文字にはしなくとも、田舎の小さな茅屋で自分の血を以て自分の信仰の生涯を戦つたのである。

(中略)
然し我々が何が出来なくとも、我々の置かれた立場に於て、持場に於て、天を欺かず、人を欺かず、己を欺かず、何処までも誠実な生涯を送り得るならば、そのsincereなlifeを戦ひ抜き生き抜けるなら、日本は亡びないであらう。政治も経済も健全なmoral backboneを有つことが出来るであらう。それを我々のambitionにしようではありませんか

(「所懐」(昭和十三年十一月 一高基督教青年会公開講演会に於ける講演筆記)pp.251-252)