ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

生涯に何の益があったであろうか

もう9月に入ったのではないかと思われるほど涼しい日が続いています。私にとってはうれしい限り...。
実はこの時期、本来ならばドイツ旅行をしていたかもしれなかったのです。ルターゆかりの修道院にも宿泊させていただけるという貴重なお誘いでした。ところが、私ときたところが、11月の学会を例年通りの9月と勘違いしていて、その前にマレーシアへもリサーチ旅行に出なければならないし、などと考えて、見送ってしまったのでした。今更ながら残念...!
というわけで今年は、前年よりもゆったりペースです。
若い頃からの癖で、今できることは今しなければ、と切羽詰まった感覚で、いっぱい荷物を抱え込んでは消化しきれずに焦っていました。時間を精一杯有効に使っているようでいて、実は不全感を残していたのですね。一日にできる分量の課題を確実にこなすこと、それを安定して継続していくことの方が大切なのに...。
なぜこんな風に抱え込んでいたかといえば、人生いつ何時何が起こるかわからない、今日か明日にも終わってしまうかもしれない、という強迫観念があったからです。実際には長寿家系ですから、もっと長い目で見る必要があったはずですが。
まあこれも、受験体制が影響していたかもしれませんね。東京や関西と違って、名古屋は公立学校が普通なので、小学校まではのんびり過ごせたのは幸いでした。でも、中学1年はよくても、2年から焦らされ(←何に?)、高校に入った翌日には早速、大学受験の話が出て、やっと大学に入学できたかと思えば、すぐに結婚はどうするのか、とか何とか...。
当時は、世の中全体として、ここまで寿命が延びるとも思っていませんでしたし、確かに価値観の多様化が進んでいることも事実です。情報も経験幅も今よりは格段に限られていたからだと思いますが、もし規格化された通りに生きていたとしても、だから何なんだ、と考えていたでしょうねぇ。
最近、(もしあの時こうしていたら)と考えることがあります。歴史にイフ(if)はない、とは言いますが、多分、そういうことを思い巡らす年齢にさしかかったのでしょうか。決して満足のいく人生ではないものの、とりあえず、こうして何とか暮らしが成り立ち、好きなものが食べられ、読みたかった本が読め、聴きたかった音楽が聴けるという精神の自由と平和な生活は、何物にも代えがたい幸せだとは言えるでしょう。ただ、自己実現のための目標を達成できたかどうか、と言えば、周囲の環境から客観的に考えても、無理だったことも多々ありますね。こればかりはどうしようもなかった、という...。いずれにせよ、その時その時での感覚と決断の連続の結果を、自分で引き受けるしかありません。案ずるより生むが易し、については、案じ過ぎて生めなかったことも多いですし...。
昨晩読んでいたのは、アウグスティヌスの『省察箴言』(ハルナック編)岩波文庫1937/2008年)です。アウグスティヌスの段階で、キリスト教の本質的な問題はほとんど語りつくされている、と聞いたことがありますが、確かに同意できるように思います。では、人類は果たして進化しているのかどうか?
次のような一文がありました。

「人間の一生はそれ自体(骨に豊)短い。幼年時代から最老年時代に至るまで、人間の一生は、どうあらうとも、決して長くはない。アダムが今まで生き存らへて、今日死ぬとしても、その長い生涯は彼に何の益があつたであらうか。」(p.189)

読書ノートを繰ってみれば、一か月に約十冊、本を読むペースが既にできています。比較的、堅苦しい本を選んでいることと、付箋をつけながらノートやメモもとっていることもあって、三日に一冊がせいぜいです。ところで、一流の人は読書経験が豊富だとも聞きます。曾野綾子さんが、「自分を伸ばすために読書を始めて、そしていつかそのおかげで人生で『出世』できたと思った人は、私に手紙を書いてほしい」という意味のことを書かれてもいました(『ただ一人の個性を創るためにPHP研究所2004年)p.126)。また、今月上旬に借りた『魅せるひとの極意:愛読書に一流の哲学をみる!ポプラ社2009年)という本は、すぐページが終わってしまいますが、やはり秀でている人はよく本を読んでいるんだなあ、と。(この二冊は、堅苦しくない本です。気分転換に借りてみました。)
問題は、では、果たして私はどうなのか、ということ。仮に読むだけ読んだとしても、世の中に出て行って貢献できなければ、単なる自己満足ではないか、とも思ってしまいます。