ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

初心にかえって

どうもマレーシア神学院のスタッフ達は、私がこれまで発表した原稿の翻訳を心待ちにしているようです。正直なところ、そんなに本気で待っているとは想像していなかったために、今日、メールで「あれはどうなった?」と尋ねられ、申し訳なく思いました。
ただ、マレーシアのキリスト教文脈で期待されている内容と、日本の研究会や学会で望まれる内容や焦点が、必ずしも一致しているとは限らず、そこが悩ましいところです。それ以上に、こちらも何かと振り回され、混乱していた部分がありました。ようやく最近になって心理的にも資料面でも整理がつくようになり、今後は焦らずに、一つ一つのテーマを自分なりに納得のいくようまとめていこうと思っています。
日本で脚光を浴びなくとも、マレーシアで関係者に読んでいただき、資料として使ってもらえるなら、最もありがたいことです。もともと当初からそれを志していたのですから。こういう話をすると笑う人もいますが、マレーシアから情報を取っておいて、当事者抜きで自分の業績だけにすることの方がむしろ恥ずかしいことではないでしょうか。
最近、『キリスト教史学』のバックナンバーを読んで勉強していた時、いい研究とは、地道な努力を重ねつつ、探し当てた一次資料を元に、一つ一つの事象を丁寧に検討していく過程と真剣な態度だということを改めて実感し、勇気づけられました。学会の知名度やレベル、また、どこの大学所属か、役職は何かなども、本質的には関係ないのだということです。特にこの学会では、毎回続けて同じテーマを研究発表しているご年配の会員も目立ちます。中には、理系の大企業勤務者でありながら、ライフワーク的に明治のキリシタン禁制について一級の資料に基づいて綿密な検討を発表されている研究者もいらして、本当に励まされます。本来、学会とはこのように開かれたものであるべきなのでしょう。生業としては企業勤務で、自分の問題意識追及の場としては、研究と学会で、という二足のわらじです。
もっとも、キリスト教史学では、一回の発表で内容が全部伝えられるほどチャチな神学やキリスト教の歴史が扱われているはずもなく、連続して発表されることで、聴き手にとっても徐々に理解が深まるという意味も大きいと思います。
ある学会では、連続発表しようとする会員がいると、それを妨げる規約の有無までわざわざ理事会で言及する役員がいるようですが、もし本当に学会の繁栄を希望するのであれば、続けて発表する人を歓迎こそすれ、退けるような発言をする役員の存在こそが問題視されるべきではないでしょうか。また、がんばって出席しても、どこか不愉快になるような会合もないとはいえません。
キリスト教史学会に入会した頃、ある理事の先生が、私の事情を聞かれた後、間接的に「どんどん書いてください」とおっしゃってくださったそうです。また、別の先生からも、「次世代のあなた達にがんばってもらいたい」とも応援していただきました。

とにかく、初心を思い出してコツコツがんばりましょう。