ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

加藤周一『読書術』から

加藤周一氏の『読書術』がいささか物足りなかったと書きました(参照:2009年4月4日付「ユーリの部屋」)。
ですが、読み通してみて、氏が逝去されてから初めて、カトリックの洗礼を受けられていたことを知って驚いたと「告白」されたいわゆる著名な知識人(あえてお名前は伏せます)のことを思い出し、親しく交友関係を持っていたという割には、その発言そのものがいささか腑に落ちないような気がしたので、当該書から、一部を抜粋引用させていただきます。

・聖書を理解するためには、それが西洋史のなかで、歴史的に見て大事な書物であるという知識だけでは足りません。おそらく、そういう知識は読みはじめる動機にはなるかもしれないけれども、ほんとうに聖書を理解するためには、まったく役に立たないかもしれません。しかし家族を失ったあとで、ただひとり、どうして生きてゆこうか、どんな心のよりどころがあるのだろうかということを捜し求めているときに、聖書に近づいてゆくとすれば、なんとかして道を捜そうとするその気持は、理解の大きな助けになるでしょう。(pp.52-53)
論語/聖書/プラトン/仏典−どれか一つを読むことのほうがはるかに適切。一面的な考え方にかたむくかもしれません。しかし一面的ではないどんな深い思想もなかったのです。(p.53)
日本人として世界を客観的に公平に理解してゆくために大切なことの一つ(p.55)
古い経典も読み方しだいで新しくなる(pp.46-47)
自分を発見するために古典を読む(p.50)
もし眠るのが旅先で、ホテルの一室ならば、近ごろ聖書の備えつけてあるところが多いようです。そこで一時間聖書を読むこともできます。(p.83)
人生の大事について、他人の口車にのせられる人間は浅薄です。(p.112)
世の中の出来事に対して自分の意見をつくるために、どうしても必要なことだろう(p.163)
そういう仕方で興奮していると、いつまでたっても気分的に敵味方を直観して、興奮するということを繰り返してゆくほかはありません。(p.191)

もっとも、抜粋のすべてが聖書関連の記述ではないことは、お断りするまでもありません。ただ、こういう口述内容を1962年の段階で本の形にされていたのですから、少なくとも「知識人」を称する以上、氏のこのような考え方に触れていたはずではないのか、と私としては不思議に感じた次第です。
「一面的な考え方」という指摘は、何年か前に、私も研究発表で二度ほど受けたことがあります。つまり、一つの宗教に傾いているので、相対的な視点が失われているという批判です。しかし、古典の一つである聖書すら読んだこともない人に、そのような批判をする権利が前提としてあるのかどうか、一度考えていただきたかった、と思いました。そういう批判にも、短く淡々とした切り返しで反論されている点、さすがは加藤氏の手腕でしょう。ちなみに、これは聖書だけに限った話ではないことを申し添えておきます。
それから、恐らくはギデオン協会のことを指しているのでしょう、ホテルの一室に備え付けてある聖書の話ですが、これも、院生の時、同級生から大笑いされた記憶があります。私はギデオン協会のメンバーではありませんし、ホテルに聖書を置くことが果たして効果的かどうかはかねがね疑問に思っている方ですが、頒布する人々のご苦労も知っていただけに、笑う人の気持ちがよく理解できませんでした。こういう態度を「信教の自由」というのではありません。明らかに、教養なき失礼な態度であり、その笑いは自分に跳ね返ってくるものだ(ということにも気づかない)、ということは、上記文からもうかがえるところではないでしょうか。

他にも、「自由な」資本主義社会(「好戦的で腐敗し、近いうちに自滅するであろう」資本主義世界)と「民主的な」社会主義的(ママ)世界(「神なく自由なき悲惨な」社会主義世界)といった公平な見方、法華経には現代でも集団を生み出す力があることへの指摘、一般にフランスの教養層が読む「高級紙」だと大雑把に紹介される「フィガロ」を保守党、「ル・モンド」を中立系と区分して紹介されているところなど、改めて勉強にはなりました。