ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

インターネットのデータの罠

インターネットの向上のおかげで、文献調べが非常に楽になったことは事実です。一方、データに関しては、必ずしも全体の正確な動向を示しているわけではないことも、併せて覚えておく必要がありそうです。
昨晩、Google Scholarで調べ物をしていた時、ふといたずら半分に、自分の夫の名前を入力してみました。すると、驚いたことに、予想外に多くの英語で書いた論文が(理系なので連名ですが)出てきたのです。タイトルを読み上げると、本人いわく「あ、それだいぶ前のだろう?そんなこともあったな」程度の平然とした反応でした。じゃあ、うちの主人は‘Scholar’なんですか?信じられません。
かくいう私も、数年前まではこの検索で出てきたことがあります。ところが、いつの間にか消えてしまい、存在しないことになっているのです。
このブログも、カウンターをつけているので、英語版と日本語版の両方を毎日ノートに記録しています。同時期に始めたのに、英語版より日本語版の方が、圧倒的にアクセス数が多く、合計数にかなりの開きが出てしまいました。世界中に発信していることになっているので、英語の方が閲覧数が多いと思っていたのですが、どうやら、日本型発信のブログのためか、日本語の方が読みやすいのでしょうか。
ところが、今年に入ってからは、いつの間にか逆転し、英語版のアクセス数が一日平均で366回あるのに対し、日本語版は183回と下降線を辿っています。3月は書かない日も増えましたし、内容がおもしろくなくなったからでしょう。以前は、イスラーム関連の文献の要約やマレーシア分野の体験談などの詳細を記していたので、一日に500件以上の閲覧数になったこともあります。一方、英語版は今年に入って、一日1000件以上のアクセスがあった日もあります。理由は簡単で、話題が話題だったからです。
これを多いと見るか少ないと見るかは、判断が分かれるところでしょう。もともと原則として、英語版は、マレーシアを中心とする研究テーマに関連したニュース報道などを複写することとし、日本語版では、時事的な話題は極力避け、誰でも知っているような、新聞や本を読めばわかるようなことはできる限り除き、自分でなければ書けないような内容にしようと決めていました。とすると、それほど多数派向けでないことが最初から明らかだったので、アクセスなどは期待もしていませんでした。「読者」は、自分とその周辺ぐらいが当然で、自己満足というより、書いた時点で自分なりに納得がいけばいい、というのが基準でもありました。
世の中の動向に、ブログの数値程度で振り回されたくないと思う反面、日本語版の内容には、少し反省点がいるかもしれません。花粉の時期には外出を控えるため、日常生活に表面的な変化が乏しく、話題も偏ったものになりがちです。それにしても、私的内面生活を公表することに、いかなる意味があるのか。自分がどんな行動をとったかを人様にお見せして、いったい何の意義があるのか。
とはいうものの、ブログを書くようになってから、私の中では何かにつけて回転がよくなったことも事実です。本を読むにも、自分が文を書くので早く読めるようになってきたかと思いますし、人前で話すのも、昔は細かいことをあれこれ心配ばかりしていましたが、最近では、(えい!どうなってもいいや)という開き直りが出てきました。後ろに下がっていてばかりいて、自己紹介をしなければ、他の人には伝わらないことも多いでしょう。それまでは、「マレーシアの細かく小さい部分を長年飽きもせず調べている(変な)人」というイメージだったようですが、変なのは同じとしても、「手広く関心をもっているんですね」「すごい読書量ですね」(←これは嘘です。私は平均的だと思います)「いろんなことをやっているんですね」と言われるようになってきたのは、恐らくブログのおかげだろうと思います。

逆説的ですが、年をとるにつれて、この自己紹介こそが重荷になってきました。だから、最近では、立ち上がってお礼を申し上げ、名前を述べて「どうぞよろしくお願いいたします」だけに留めています。