ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

加藤周一氏の遺言

昨夜は、「N響アワー」を見た後、今月5日に89歳で亡くなった故加藤周一氏の遺言とも称すべきドキュメンタリー風の番組(ETV特集加藤周一1968年を語る」)を楽しみました、と書ければよいのですが、どうやら東京出張が2週間続くと、自宅でくつろげる久しぶりの週末のためか疲れが出るらしく、申し訳ないことにうつらうつらしてしまいました。オンデマンドで録画が可能だと主人が言っていたので、一度試してみる必要がありそうです。
加藤周一氏については、言うまでもなく、学生時代からずっと尊敬し、ご著書もほんの少し所有しています。朝日新聞夕刊の連載エッセイは、赤線を引きながら読んでいました。ですけれども、あまりにも大家でいらっしゃるので、恐れ多くてブログで書くには忍びないような思いも抱いておりました。
記憶に鮮明な二つの出来事があります。
一つは、「このままでは日本語は滅びますよ」と加藤氏が日本語教育専門家の集いで警告されていたのに、女性の大御所風の○○先生(かつて日本語教育業界に所属していた者として、かなり存じ上げているだけに、あえて名前は申しません)が、「滅びるなら共に滅びよう」などと格好つけておっしゃり、会場から拍手が沸いたシーンです。武士道の桜散るをイメージされていたのでしょうか。この映像は、数年前のテレビで偶然に拝見しました。加藤氏が(本物だな)と感じたのは、シンポジウム終了後のざわつき浮ついた雰囲気を、憮然としてじっと眼光鋭く観察されていたご様子からです。そのお姿をカメラがとらえていたのにも感動しました。
もう一つは、どなただったか失念しましたが、ある中堅どころの識者らしい男性と二人の対談です。ヨハネ・パウロ二世とカトリック教会に関して冷やかに批判的に発言したその男性に対して、加藤氏が「いや、僕はねえ、母親がカトリックだったものだから、それほどカトリックに悪いイメージは持っていないんですよ」とおっしゃったのです。続けて、「ポーランド人として初の教皇に任命が決定した時、我が身に降りかかるであろう重圧に対して、一晩中、聖堂の床に伏したまま祈っていたそうですよ」とも紹介されました。私にとっては、そこまでは既知のありふれた話だったので、(そうそう)としか思いませんでしたが、肝心なのは、その男性が、それで急に態度を変えたことです。「そういうカトリックならいい」とまで言い出しました。(何を言っているの?この人は...)と呆れたと同時に、加藤氏がそうおっしゃってくださったので、話の筋がまっすぐになったのであって、もし別の文化人とやらが対談相手として登場されていたら、こうならなかっただろうとも感じました。
ここまで書くと、図書館へ走って行って、加藤周一氏の全集をひもときたくなってくるのが、私の癖です。あ、庄司紗矢香さんも、加藤周一氏を読んでいるそうですよ。彼女の人柄や育ちがうかがえますね。
冒頭のN響に話を戻しますと、このブログでも二度ご紹介させていただいたヴァイオリン奏者のN先生が(参照:2007年7月27日・7月29日付「ユーリの部屋」)、ご定年で退職されたとの報に接しました。もっとも、今後も折にふれて演奏活動を続けられるそうですけれども。早速、メールでこれまでのお礼を申し上げたところ、数時間おいてすぐ、丁重にお返事が届きました。こういう端正さが、日本の一流オーケストラ演奏者の美点です。
加藤氏の番組とN氏は、実は根底で連携しています。N氏は、もともと東京大学(1967年入学)で物理学を専攻されていましたが、学生運動のために、まともな勉強ができそうにないことに落胆され、子どもの頃から続けてきたヴァイオリンで身を立てようと進路変更を決意し、東京芸術大学に入学し直したというご経歴の持ち主です。数年前の「団員紹介」でも、火炎瓶で煙にまみれた安田講堂の映像付きで出演されていましたので、ご存じの方も多いことと思います。縁遠かった東大にこの頃用事ができ、門をくぐる度にそのことを思い浮かべるのですが、あの時代の意味をもう一度よく考えるように、というのが、恐らくは加藤周一氏の最後のメッセージだったのだろうと理解しました。