ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「松谷みよ子の仕事展」から

昨日は、民博の梅棹研究室でいただいた招待券を持って、思文閣美術館の「松谷みよ子の仕事展」へ行きました(参考:2008年7月19日付「ユーリの部屋」)。京大の近くで、昔から知っていた場所なのに、中に入ったのは初めてです。大変雰囲気の落ち着いた品のいい場所でした。割合に涼しかったのも幸いでした。
展覧会や美術館などでは、私の場合、どんなにがんばっても一時間半で一休みしたくなります。足が疲れますし、真剣に見ていると、いわば一種の飽和状態になるからでもあります。集中できる時間としては、90分というのが標準的なのかもしれません。たとえ豪華であっても、広々として移動だけで時間がかかる場所よりも、また、あまり情報を詰め込まれるよりも、適度な空間に適度な展示で、というのが望ましいです。
その点、思文閣美術館は私の好みに合っていました。
松谷みよ子氏ももう82歳。今回の催しは昨日が最終日でしたが、それでも私達と同じ時間帯には10名ほどの入館者があり、静かに熱心に展示に見入っていらっしゃいました。とはいえ、子ども連れではなく、中高年中心でした。
人形劇、民話収集、反戦思想、児童文学、赤ちゃん向け絵本、国内外への旅行など、膨大なお仕事を年譜と共に拝見し、そのエネルギーにはとにかく感嘆させられました。手書き原稿や創作ノートの文字が、当時の心境などを表現しているようで、やっぱり手作りはいいなあ、作家はこうでないと、と思います。その折々の白黒写真も、時代背景をあぶり出しにしているようで、一面で閉塞感あふれる行き詰まった現今社会から見れば、いろいろと考えさせられるものがありました。
松谷みよ子氏の思想や民話研究などは、そもそも専門ではなく、それほど熱心に全著作に目を通してきたわけでもないので、ここでは控えますが、今回訪れてみてよかったのは次の三点です。まず、松谷みよ子氏を通して戦前戦後から現代に至る日本の社会動向や歴史などの片鱗が学べたこと、次に、本の作りがしっかりと手が込んでいて、最近の大型書店で見かけるものよりも作り手の勢いや熱意が感じられるように思ったこと、そして、私自身の遍歴と現在を振り返る一つの材料になったこと、です。
これら三点に通底して一番印象に残ったのは、やはり子ども向けの「モモちゃんシリーズ」とその背景でした(参考:2008年2月7日付「ユーリの部屋」)。モモちゃんシリーズ6巻のうち4巻と共に、私は育ちました。あの頃は、区立図書館に行くたびに、新刊のモモちゃん本が一冊ずつ入っていたので、他の人に借りられないよう、用心しながらマークしておいたのを覚えています。もっとも、読者として年齢的にはやや遅れているのですが、それは三つ下の妹や十歳下の弟と一緒に読んだからでした。私にとっては、懐かしい心象風景として、モモちゃん本の言葉遣いや感性などが、どこかで心の支えになっていたり、影響を受けたりしていると今でも思っています。

反戦思想の絵本や児童文学などは、当時は何だかよくわからないながらも何かを感じていたという記憶を辿りながら展示を見ると、まだ左翼思想に勢いがあった私の学校時代と松谷みよ子氏の著作がちょうど合致していたので、なるほどと合点がいくところがあります。今の社会情勢とはいささか異なる感覚や思想の流れを、確かに見い出します。
ただ、子どもの頃から、松谷みよ子氏の本は、やや難しいというのか、人生の暗い側面を隠さない作品だと感じていました。最もフィットしたのが、やはりモモちゃんシリーズでしょう。「人生をお書きなさい」と師である坪田譲治先生は諭されました。
ここでいささか脱線しますが、この坪田譲治氏は、本当にすばらしい師だと感じ入ります。作家として生きる道の困難さと心構え、執筆の注文を受けた時の上手な断り方、『貝になった子供』で初受賞したのが年齢的に早過ぎたという感想、「いいご主人に恵まれて最近はちょっとだめになった」という指摘など、葉書でこまごまと日常面に至るまで気配りしながら、ある時には直言して慢心しないように諫め、ある場合には作品の判断保留をし、文字通り手塩にかけて育てていらっしゃるのです。生い立ちから、なかなかお嬢様気質の抜けなかったらしい松谷みよ子氏に対してストレートに叱責したり、「モモちゃん」の文壇登場に対して、「世間はいろいろ言うでしょうが、気にせず続けなさい」と励ましたりするなど、師弟関係とはこういうものなのか、とうらやましく思います。2004年10月に我が町でお目にかかったあまんきみこ氏も、坪田譲治先生に師事したとうかがいましたが、あまんきみこ氏とは人となりも作風も全く異なるので、おそらくは、一人一人に合ったきめ細やかなご指導をされていたのではないかとも想像されます。
閑話休題
確かに、「モモちゃん」には、子どもの側から発せられた鋭い観察や感覚が、母親を取り巻く視点も織り交ぜて、さりげなく表現されています。それも、動物が擬人化された甘いファンタジーのようでいて、比較的よい言葉使いをする、楽しそうで恵まれた現実の中流家庭の一側面が表出され、同時に、なかなかシビアな人間関係が率直に語られています。先端を歩まれていた作家を彷彿とさせる一方、遅れて今は主流になりつつある現実社会の一部分を、当時から真っ正面に見据えてあぶり出しにしているところが見事だと思います。
また、恐らくは旧ソ連に招かれたのであろう「働くおかあさんの会議」、ベトナム戦争を指しているのではないかと思われる「南の国の戦争」の話など、時代背景をいろいろと考えさせられます。
ただ、今でも記憶に残っているのは、子ども心に、おもしろい話とあまりおもしろくない話とが一冊の本に混じっていたことです。ところが、帰宅後、小型化した講談社の「モモちゃん」シリーズを読み直してみると、私自身が、松谷みよ子氏がモモちゃんシリーズを創作していた年代にほぼ当てはまる歳に近づいたこともあってか、子どもがよく描けていると改めて思うのみならず、あの頃の松谷みよ子氏がどんな思いでこの作品を書き続けてきたのかが、ようやくわかるようになってきたことを発見しました。
例えば、「お仕事ママ」であるモモちゃんのお母さんが、モモちゃんを「赤ちゃんの家」に預ける話なども、その社会的背景や意味が私にはよくわかりませんでした。
解説では、「保育園なんてどうにもならない子のいくところ」だと、当時は赤ちゃんを預けて働くことに世間の偏見があったものの、作品に書いてみると、「赤ちゃん部屋に行くモモちゃんを、ふつうの家の子がわかってくれるだろうか。でもその心配は無用で、読者である子どもたちはちゃんと受けとめてくれました」などと書いてありました。私は、まさにその「ちゃんと受けとめ」た側に該当するわけですが、実際には、モモちゃんやアカネちゃんの言動に注目していたため、ぼんやりしていて気にならなかったというのが正確なところです。
当時、「働く女性」には二種類あることすら気づきませんでした。つまり、家計を助けるために共働きする女性と、専門職として余人に代え難くて仕事をする女性とです。私の育った環境では、大卒であっても専業主婦をして子育てに専念する人が普通だったものの、「いろいろな人の中でもまれて育つのがいい」「似たような家庭環境の中だけで育つとかえって軟弱になる」という親の方針もあってか、ご近所には、赤ちゃんの頃から保育園に預けられている子どももいたのに、その社会的意味がよくわかっていなかったのです。
当時の記憶を探ってみても、「赤ちゃんの家に預けられているのに、なぜ、モモちゃんの家では、がさつで乱暴な表現ではなく、結構難しい言葉や上品な言葉が自然と使われているのだろうか」と不思議に思っていたのは確かですが、自分の中では、上記二種がいささか混乱していました。ここでも、あの頃の学校教育の中で、「平等意識」を浸透させ、「差別や格差があってはならない」「みんな一緒に」を指導され、それを鵜呑みにしていた自分の断片がうかがえます。
社会階層や学歴の差違を私が意識するようになったのは、実はマレーシアに関する勉強とリサーチを始めてからでした。同じ大卒でも、マレーシアなどでは当然のようにエリートとして振る舞い、専門職に就くのが普通であって、大卒後、結婚して子育てに専念する女性は、退屈で低く見られるということを知ったからです。それまでは、どちらかと言えば、精神面に重点を置いて生き方問題を考えていたため、ナイーヴ過ぎて社会の厳しい現実を知らなかったんでしょう。そういうことも、この展示を見ながら思い出しました。
ただ、本当に懐かしく感じるのは、私自身の今の境遇と比較するからでしょうか。当時は、松谷みよ子さんの置かれた複雑な面を深く考えたり察知したりすることなく、のびのび育っている楽しげなモモちゃんとアカネちゃんと黒猫のプーを、一面で模範とし、ある面でお話の筋を単純に楽しみながら読んでいただけでした。しかも今でも怖いほど、言葉遣いや内容は、そっくりそのまま覚えているのです。高度経済成長時代に共に育ったので、社会に上向きの勢いがあり、努力さえすれば未来は明るいものと無邪気に信じていた自分。自分も家庭を持ったら、このような親子関係でいくんだと勝手にいいとこ取りしていた自分。しかし現実は…??
「靴だけ帰ってくるパパ」「死神が来たこと」「歩く木(夫)とよく育つ木(妻)」「おわかれ(離婚)」そして、新しい家に引越してからよく病気になるアカネちゃんの話も、しかと覚えていたはずなのに、そして、どうやら、「パパ」は浮気をしたらしいんだな、または、家に帰らず外を出歩くのが好きなんだな、とわかっていたのに、どうしてその先へと読み込めなかったのかと思います。
客観的に見ればやむを得なかった面もあります。というのは、その後の夫婦関係を脚色化して描いた『アカネちゃんとお客さんのパパ』は1983年発行で、今回入手した『アカネちゃんのなみだの海』は1992年発行だからです。その頃は、私自身がモモちゃんをすっかり卒業していたのでした。
展示会では、元夫で故人の瀬川拓男氏と共に歩んだ結婚前後の写真がかなり並べてありました。結婚前に結核を病んだために、三年ほど入退院していたみよ子氏を陰ながら支えていたであろう瀬川氏、人形劇団を主宰する瀬川氏の「太郎座」と共に希望にあふれていたのであろう結婚初期、子育てと家事に追われながら執筆や国内外での取材旅行に出かける多忙な日々、そして、年の離れた二女を出産した後の体調不良や夫婦関係の亀裂と葛藤などを想像すると、何かぐっと迫ってくるものがあります。これら多くの著作群の背後には、このような私的事情があったのだ、と。
恐らくは、大変だったけれど最も幸福だった時代は、夫や劇団員の人達と掘り炬燵風の机を囲みつつ、劇で使う人形片手に談笑している姿の頃なのかもしれません。坪田譲治先生だって、最初の娘さんが生まれる頃には、女の子だったらお雛様を贈ろうかなどと、細やかに気遣いされていたのですから。
モモちゃんシリーズでは、お別れしたパパが「口をあけたオオカミ」だと寂しそうに描写されている箇所が出てきます。離婚して引越しとなった当日、パパは見送りに出てきません。ようやく、引越しトラックが遠くなってから、アカネちゃん愛用のまりが道に落ちているのを見つめ、町の方へ歩いていくパパなのです。
現実面では、離婚後の数年で、瀬川氏は病死されました。40代半ばだったそうです。

「よく育つ木」だとご自身を喩えていらっしゃる松谷みよ子氏。でも実は、あのご主人の(死後も含めた)存在こそが、あらゆる意味で原動力となって、ここまでお仕事をなし得たのではないかとも思います。
ママとモモちゃんとアカネちゃんのモデルであるみよ子氏と二人の娘さんは、三人とも、今もご健在です。一方、モモちゃんシリーズの担当者であったイラストレーターと編集者のお二人は、ご主人と同様、40代半ばでなくなったのだそうです。「死神」とは、ママ役の松谷みよ子さんに取りついたのではなくて、本当のところは、松谷さんご自身の持つある一側面でもあったのではないでしょうか?
自分には父親がいないことの説明を本に書くよう求める二番目の娘さんとのやり取りが壮絶です。

「そこんとこを書くのは恥ずかしいか?」
「恥ずかしくなんかありません。」

(『アカネちゃんのなみだの海講談社1999年)「あとがき」p.202)

そして、モモちゃんが世に出てから28年後に、やっと、モモちゃんやアカネちゃんの存在根拠であるご主人との永劫の別れを描いて、物語の終結とするのです。

「それにしても、ほんとにみんな大きくなりました。モモちゃんもアカネちゃんも、ほんとうに大きくなりました。
だから、このお話も、おしまいです。」

(『アカネちゃんのなみだの海講談社1999年)pp.198-199)

私も、これであの懐かしかった子ども時代を封印して、前に進まなければなりません。昨日で夏休みも終わったことですし、また発表の準備と原稿書きを始めましょう。「お仕事、お仕事」と言い聞かせながら励んでいた松谷みよ子氏を思い浮かべつつ。