分をわきまえること (1)
10年以上も前の話です。マレーシアの華文独立中学という華語で教育を施す私立の中等学校(ジョホール)を卒業し、自費で日本(名古屋)に留学したマレーシア華人(客家)の若い留学生と知り合いました。経済学専攻でしたが、日本留学中に、オーストラリア留学の枠も見つけて、英語を磨くのだと言っていました。彼から送られてきた年賀状は、大変見事な日本語で、とても感銘を受けました。自力でここまでやっているだけに、親の苦労もわかっているし、目標を持って意欲的にますます努力するというタイプでした。
その人は、マレーシアでは華人共同体の中だけで暮らし、マレー語は学校で学ぶだけで、理解はできるが使わないという生活だったそうです。ところが、さすがに日本に留学すると、「マレーシア留学生会」などを通して、政府派遣のマレー人留学生と接触の機会が出てきます。そこで初めて、新聞や人の話だけではなく、直接、マレー人の話を聞くこととなり、(そうか、マレー人の考えがそうなら、仕方ないな)という結論になったとのこと。つまり、マレー人はマレー人独自の考え方ややり方があり、そこまで言うなら、それはそれで認めていかなければならない、だけれども、華人としてのアイデンティティを持つ自分は、それを認めた上で、我が道を行くしかない、ということだそうです。
その後、連絡が途絶えてしまったので、今どうしているのかはわかりませんが、非常に優秀で、話のよくわかる、とても育ちの良さそうな落ち着いた華人学生でした。さまざまな民族と混交していろいろな言葉が話せるとか何とか言っている人達より、よほど信頼ができ、筋の通った話のできる人だったという印象があります。
このように、立場が異なり、距離を置いているからといって、相手を理解していないということにはなりません。黙っていても、相手のことをわかっている、わかっているだけに距離を置いて静観している、という場合もあるのではないでしょうか。むしろ、いかにも自分は心が広くて、さまざまな考えを受け入れている、とか、外的に、べらべら喋ってわかっているふりをする人よりも、よほど好感がもてます。
学部生時代に、知らないことは知らないと人前で言えることが、専門性の第一歩だと教わりました。知らないのに、知ったかぶりをするな、ということです。「東大の先生でも間違ったことを書いているのだから、間違いは間違いとして、証拠を挙げて指摘できるようにならなければならない」とも。
最近では、先に言った者勝ちのようなあさましい風潮があって、本当は専門でもなく、知らないはずなのに、ネット情報で手っ取り早く得た知識を、すぐに人前で講釈するタイプも目立ちます。いや、いつの時代でも、そういう人はいたのでしょうが、実に嘆かわしいですね。
昔のご年配の先生方は、たとえ勉強されていても、「私はそれについては詳しくないので」「専門ではないので」「知りませんから」と前置きしつつも、的確なコメントを下すというようなタイプが大学に多かったと思います。そこに、物を発言することの厳しさと同時に、安心感もありました。そういう先生方は、自分の考えにもし非があったならば、それを認めることも素早く公平であったように思います。