ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

暑くて疲れた一日でした

昨日は不覚にも、この「ユーリの部屋」を綴ることなく終わりました。
というのも、また民博図書室へ出かけて、数時間、マイクロフィルムを見つめていたので、目が非常に疲れてしまったからです。私の場合、基本的には丈夫な方だと自負していたのですけれども、学生時代から、足首から下と目に疲れが出やすく、足が疲労するとなぜか目までしょぼくれてくるという循環があります。車を持たないので、歩くことには慣れていて好きですが、好きなことと疲れないこととは全く別類です。
マイクロフィルムの元となった資料はイェール大学神学部所蔵のものです。昨年12月のマレーシア研究会で発表した時、「このテーマの研究を本当にやろうと思うなら、イェール大学神学部にあるアーカイブ資料を見なければなりません。それをしないで、本当の研究だとは言えないんです」と申し上げたのですが、そう言いながら、内心、(しかし、次にアメリカに行けるのはいつになるのだろう?)とか(だけど、そこまでやれるだろうか、私?)などと思っていました。
ところが、運は巡ってくるものですね!私がアメリカへ渡航しなくても、いつの間にか、資料の方が大阪に来てくださったのです!幸運以外の何物でもありません。
マイクロ資料は、マレーシアでも、よく国立図書館大学図書館で利用しましたが、すぐに紙詰まりになったり、機械故障したりするので、ただでさえ未整備の資料からデータのありかを発見するのに莫大な時間がかかるのに、インフラのせいで、見通しのつかない時間のロスが加わります。こういう点が、頭脳流出の原因の一つですね。そうはいっても、最初はここから始めるしかなかったので、方法論としてはやむを得なかったと思います。第一、2000年2月に東京外大の共同研究員をしていた時、指導教官でさえ「ここには資料はありません。都内のどこでもご自由にどうぞ。それにしても、ゴミの山からダイヤを探し当てるようなものですからね」とおっしゃいました。はい!私、山から‘宝’を見つけつつありますよ、それも自力で...。

民博の敷地に向かう広大な池やこんもりした緑の木々は、眺めているだけでも楽しいものです。けれども昨日はなぜか、中年夫婦らしき二人が、この暑さの中、人けもない場所なのに、いや、だからなのか、この美しい環境で、場違いにも大声で口論していました。どうも女性の方が、一方的にどなり散らしているのですが、私が通りかかると、ますます大声で罵倒を始めるのです。「どうして、ここに連れてきたん?」「え、来る道を間違えたって?どうしてくれるん?」など、今にも殴りかかりそうな剣幕でした。どうやら、本当は来たくなかった民博近隣の公園に、男性が地名を勘違いして連れて来てしまったらしいのです。どうもこのカップル、普段から喧嘩ばかりしているんじゃないかなあ、と思ってしまいました。これも人生、ですか。

ところで、民博に行く前にある銀行に立ち寄ったところ、窓口の若い女性の対応が遅くて、20分も待たされました。どうも、単なるカード交換で済むはずが、クレジット機能付きの新カードを勧めてきたので、「審査書類を書いてください」などと、余計な手続きをさせられたのです。審査ねぇ。この銀行はお財布代わりに過ぎず、もう複数のクレジット・カードを持っているので、必要ないんですが。何やら、生体機能付きカードというものも開発されたようで、指の血管の状態から本人かどうか確認できるチップがついているのだそうです。そんなもの、いりませんよ。パスポートだけで充分じゃないですか。
しかし、その書類を書かされて、普段は忘れていた社会条件を改めて思い出させられました。私の場合、「昨年の年収は?」「持家か賃貸か?」「子どもの有無は?」「職場の名前と職階は?」「扶養家族は子ども以外に何人いるか?」「自家用車の所持は?」などと聞かれても、そもそも審査のしようがないのです。私自身の貯金がないわけじゃありませんし、夫婦ともども、生まれてこのかた借金も犯罪経験もゼロですし、クレジットも毎回一括払いですが、価値観として、無理に財産証明をしなくとも、もっと精神的に自由で意義ある人生を送りたいと選択した道は、金融機関では考慮外なのです。それを思うと、憂鬱になりました。隠すほどの個人情報は何もないのに、なぜ、この窓口行員の手違いのおかげで、こういう憂鬱な気分にさせられるのか?

少し話は逸れますが、エレーヌ・グリモーの『野生のしらべランダムハウス講談社2004年)には、彼女に勝手なイメージを押しつけてくるパリの音楽界が嫌になってアメリカに辿り着いた時、自己を証明する社会的保障を何も持っていなくて苦労した話が出てきます。パリ音楽院で最年少かつ全会一致の合格という才能の持ち主であっても、アメリカでは全くの無名で「信用に足る人間なのか」という証明が全くなかったというのです(p.283)。ニューヨークでも、住む場所を借りることすら大変で、部屋を見つけた途端に、次に住む場所を探し始めたという、不安定な時期を過ごしたようです。しかも、ピアニストなのにピアノのない生活で、大学まで弾きに行ったり、友達に頼んで弾かせてもらったり、スタインウェイ社に行って時間ごとにお金を払って練習したのだそうです。その代わりに、楽器に触らず楽譜を読み込んでイメージで研究し、その成果を舞台で試してみるという演奏活動のようでした(p.287)。
もっとも、彼女のようなずば抜けた才能と子ども時代の異常なまでの集中訓練があったからこそ、このような状態でも一流の演奏家として通るのですが、私の関心事は、まずもって芸術家の社会保障のことでした。確かに、著名な楽団や指揮者と共演を続け、休むことなく演奏活動をこなして収入を得ていたとしても、それだけではアメリカでまともな住居を得ることさえ、非常に難しかったという事実についてです。
しかし、彼女は言います。オランウータンと人間のDNA構造の差はたったの0.3%しかない。では、人間と動物を分けるものは何か。それは、自発的創造行為としての芸術だ、と(p.109)。

さて、帰宅した主人に銀行の話をすると、「審査の件、うちは全く問題ないよ。大丈夫だよ」とツルの一声。これで安心しました。確かに、こまごまとした暮らしの件については、ファイルを何冊も作って、保存してありますし、二人ともおとなしく生真面目に生活していて(真面目過ぎて病気にもなった)、これ以上何を言われる筋合いもないはずですから。「しかし、あの銀行ダメだなあ。そんな対応してたら...」。はい、向こうはこちらを審査しているのでしょうが、顧客側も向こうを「審査」しているのですよ!

それにしても、いかに真面目に暮らしていたとしても、もし主人がいなくなったら、私の社会的保障なんて、どこから来るのでしょうか。研究会や学会で毎年発表を続けて10数年になります、と言ってみたところで、誰も私を保障してくださるはずがありません。せいぜい、趣味か道楽か、といったところでしょうか。もともと幼稚園ぐらいの頃から、親に頻繁に、「社会というのは厳しくて、誰も簡単には信用してくれないんだから、親を頼らず、一人で生きていくんだよ」と脅されていましたので、覚悟は充分あるつもりですが。

私のしていることも、エレーヌ・グリモーに倣えば、芸術活動じゃありませんけれども、自発的創造行為として、動物と人間を区別する活動の一つとは言えます。しかも、やっかいなことにイスラーム圏では、非ムスリムには確かな証言者としての権利すら不充分なのです。(これを言うと、「ここは日本だ。マレーシアじゃない」とおっしゃった先生がいましたが、その機関こそが、「ムスリムが反発するので、そういうことを論文に書かないように」と言ったのです。矛盾していませんか?しかも我々の税金を使っているのに...。)

上記のイェール大学所蔵の資料に戻りますと、学校やら教会やらを建設するのに、委員会を作って検討し、こまごまとした情報もきちんと報告書に残してあるのに、現在では教会はともかく、学校の多くが、表面的には名前として残されているものの、その内実は既にイスラーム化してしまっていることがわかり、これにも愕然とします。この建設費用や宣教師の生活のためのお金は、いったいどこから来たのでしょうか。支援したのは、恐らくは、遥かな遠隔地に住む名もない人々で、マレーシアのためにと祈りと献金を捧げていたのでしょう。また、イザヤ書を読んで讃美歌を歌って祈祷してから始めたというある年の会合記録を読んでも、土地の人々の福利厚生を考え、当時としては精一杯の尽力だったと思うのに、なぜムスリム共同体から一種の侮蔑心を伴って否定される結果に終わってしまったのか...。価値観の逆転といってしまえばそれまでで、世の中は政治力がモノを言うのだとすれば、確かにその通りですけれども、それで本当にいいのだろうか、という基本的な疑問が抜け切れません。

心理的対抗軸というのか、こういう深刻な事情を知れば知るほど、事情究明と現状改善のために何かしなければという意欲がわくのですが、もしも、どこでもいいからと安易に妥協して組織に守られて安穏としていたら、私の人生、今以上にもっと視野狭窄で自己本位だっただろうと思います。問題は、人生を終える段階で、どこまで他者のためを考えて、自分に与えられたものを出し切ったか、その基準で本当に納得がいくかどうかです。そこで安心立命の心境になれるかどうかが、死後の安寧を決めるのだろうというのが私の考えです。