ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アラブ友好協会について

このところ、アラブに関する話が続いたので、なぜマレーシアに関わっているはずの私が一時アラブにまなざしを寄せたのか、私的経緯を少しご説明いたします。もっとも研究上の理由が一番大きいことは言うまでもありません。マレーシアの「マレー人範疇」にはアラブ系との混血による系譜を引く人々が含まれ、外来系指導者の立場で采配をふるっていますから、基礎知識としては、アラブに関して全くの無関心ではいられないのです。
私的経緯といっても、私自身はアラブを訪問したことがなく、これからも多分ないでしょう。また、イスラームよりもむしろアラブのキリスト教の方に関心があります。従って、以下に転載させていただく内容は、まったく偶然にインターネット上で見つけたものであることをご理解ください。2002年8月下旬のことでした。すぐに、実家の父と離れて住む弟にも、メールで転送しました。
「加藤静一」とは、私の父の母の弟、すなわち父方の大叔父に当たり(「ユーリの部屋」2007年7月4日・2008年2月14日などでも少し言及しました)、エスペラント学会でも活躍していました。著作もありますが、エスペラントとの関わりについては、また折を見て、このブログでご紹介していきたいと思っています。念のため、以前にも書きましたが、私はエスランティストではありません。
ユーリの部屋」の開始時期に書かせていただいたK家とのつながりも、直接的には、名古屋での言語関係の勉強会ないしは研究会での息子さん(G・C氏)との出会いがきっかけでしたが、結局のところ、エスペラントと聖書という要素が大きいと思います。マイノリティとは必ずしも否定的な意味合いだけではないと私が考えるのは、人間関係には、このように不思議なご縁があるからです(参照:2007年6月26日・8月12日・12月14日付「ユーリの部屋」)。

さて、大叔父のアラブ友好協会の話ですが、実は私、この話は全く初耳(初目?)でした。著作にイランを訪問したことは書いてあったのですが、それも医学関係の訪問でした。眼科学とエスペラントとテニス、これが大叔父のイメージだったのです。もっとも、私には直接の記憶がなく、両親がしゃべっている話を子どもの頃に聞いてなんとなく想像していただけなのですが。信州松本は教育立国で、若い頃の父が大叔父の後をついて歩くと、地元の人々が一様に深々と頭を下げるような丁重な雰囲気があったのだそうです。それでも、父によれば、そういう慇懃な儀礼を嫌い、そしらぬ顔をして人々と対等に付き合おうとしていたのが大叔父だったようです。

藤本徳次郎という方が綴られたエッセイに、アラブ友好協会の話が出てきます(http://www.matsusen.jp/myway/fujimto/fjm00.html)。では、藤本徳次郎氏とはどのような方なのでしょうか。お目にかかったこともないのに許可も受けずに勝手に引用するという大変な無礼を承知しつつ、ここにインターネット上にあった略歴を複写させていただきます。

略歴

1920年(大正 9年)松本市生まれ
1933年(昭和 8年)尋常高等小学校卒業
         東京島村商店へ
1935年(昭和10年)藤本デパート
1943年(昭和18年)宮田製作所
1946年(昭和21年)松本中央劇場取締役
1970年(昭和45年)松本中央劇場取締役社長
        現在に至る

13 加藤静一先生 アラブとの友好に努めた日々

[写真省略:加藤先生(左)たちとアラブ諸国へ]
 松本には文化人と称する人が多い。その中でも私が尊敬し親しくしていた人に元信州大学長の加藤静一先生がいる。
 戦後まもなく、私が仕事で東京に行った帰りの列車の中で、席が隣だったことが加藤先生との出会いだった。当時、新宿と松本の間の所要時間は9時間。その間先生といろいろな話をした。私は先生のひょうひょうとした話しぶりや考えにたちまち虜になった。
 「先生、困っていることがあったら何でも言ってくださいよ」
 「いやあ、実は米がなくてね、申し訳ないが…何とかならないかね」
 私は松本に着くとすぐ家に米を届けた。先生はとても喜んで「何か困ったら言ってきて下さい」と、今度は先生に言われた。
 私は何も困ることはなかったが、以来先生と話をすることが面白くて、次第に先生と会うのが楽しみになった。どこへ行くにも先生と私は一緒だった。妻は「金魚のフンみたい」と笑ったが、私は加藤先生や、その先生の周りの人たちと出会うことによって、多くの素晴らしい心の栄養を得ることができた。
 昭和48年、オイルショックで日本政府はアラブ支持を明確にし、アラブをもっと理解しようというキャンペーンが行われた。その折り、「我々も民間サイドで友好を進めようじゃないか」と加藤先生が提案。長野アラブ友好協会を先生と一緒に設立した。会長は加藤先生、副会長に北野建設の北野幾造副社長。黒田現松本タウン情報編集長ら20人が集まった。
 アラブの写真展や子どもたちの絵画交換、アラブ連盟東京代表らの講演会などの事業を続け、視察に行こうということになった。チュニジア、ヨルダン、シリア、クウェートへ出かけ、友好を図った。さらにアラブの駐日大使を松本などに何回か呼び、私たち会員は市長や県知事のところへ案内するなど大勢の人に認識してもらおうと努力した。
 しかし、加藤先生が平成2年に亡くなり、その後は友好協会の活動もすっかり鈍ってしまった。このほかの加藤先生と一緒に作ったグループも自然に解散していった。やはり人間は生きていなければ、とつくづく思った。
 加藤先生のいない松本の街が潤いのないつまらない風景に見え、しばらく人と会うのもつらかった。その後体調を崩して入院などをしたが、現在は回復し両親が残してくれた女鳥羽の自宅で生活している。
 縄手通りの中劇にもほとんど顔を出さず、長男が幸いにして中心になりやっているので、報告を聞きながらアドバイスをしている。
 映画界は不振と言われて久しい。現に映画館を閉じるところもあるが、私はニーズに応じたやり方によってはいくらでも発展すると思う。映画は何といっても総合芸術だ。音楽、美術、文学などあらゆるものが取り入れられて一つの作品が完成する。
 娯楽は確かに時代とともに多様化している。しかし、映画は消えることはないだろう。
 私の育った藤本百貨店は見事に映画館になって50年が過ぎた。縄手通りも多少変わったが、行き交う人の心は変わっていないように思う。縄手通りを愛する人はどんなに多いことか。
 最近人と会う機会が少なく、どうしているかと言う人が多いが、私は元気である。こうして半生を振り返ると、記憶違いもあったかも知れないが、私は素晴らしい人たちに恵まれたと心から思う。元気でいる限り、多くの人とこれからも出会っていきたいものである。

アラブ友好協会は、予想したとおり、オイルショックがきっかけでした。つまり、イスラームへの関心ではなかったようです。いかにも日本的発想だなあと思いますが、一方で、やはりエスペランティストだけあって、進歩的な発想と大胆な実行力があったことをうかがわせます。同時に、大叔父の逝去後は、活動が衰えて自然解散した、というのも、なんとなく頷けるところではあります。
末筆で誠に恐縮ですが、藤本徳次郎様には、このような貴重なエピソードを書きとめてくださり(正確には、松本タウン情報誌聞き書きのようですが)、この場をお借りして深く感謝申し上げます。どうもありがとうございました。

(追記)
書き落とした件がありますので、一言追加いたします。上記の藤本氏の文章の中で、大叔父が亡くなったのは「平成2年」とありますが、これは間違いです。2006年3月下旬、松本タウン情報社に問い合わせたところ、信濃松本専売所からお返事をいただきました。佐藤文子さんという方が「私の半生」と題するシリーズで各界の地元人を取材し、聞き語りを元に構成したものの一部が上記文章なので、話し手の記憶違いであってもそのまま確認せずに公表されたそうです。
大叔父は1987年(昭和62年)12月5日の午後1時28分に逝去し、お通夜は12月6日宝栄寺で行われました。実家からは父が参列いたしました。