ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシアのクリスチャンとのご縁

おととい、主人がテレビをいじっていて、「あ、この人いいねえ」と言うので画面を見てみると、ギドン・クレーメル率いる弦楽奏団の来日公演が放映されていました。口を半開きにして奏する姿など、庄司紗矢香さんはこれをマネしているのかと思いましたが、それはともかく、本当にすばらしい演奏でした。やはり、いい演奏家によるいい演奏を聴く必要があると思うのは、こういう時です。いい演奏なら、知らない曲でもつい引き込まれてしまうからです。おもしろかったのは、「ギドン・クレーメルショスタコーヴィチの協奏曲が本当によかった」と主人に説明していたら、「じゃ、これもショスタコ−ヴィチ?」と聞いてきたので、「それは違うんじゃない?」と調べてみたところ、実はショスタコーヴィチだったことです。そして昨日の朝刊を開くと、早速ギドン・クレーメルが、比較的大きな記事になっていました。最近、こういうカンが冴えてきているのです、夫婦共々...。

また、昨日のNHK教育での太田愛人先生によるパウロ講座、これもおもしろかったです。ちゃんと録画しておきました。一度お目にかかると、画面を見つめる心持ちも変わってくるので、昨日は眠くなりませんでした。聖書朗読も頻繁だったし...。最終回は「日本とパウロ」なのだそうです。楽しみですね。新渡戸稲造氏も絶対にご登場されますよ、これは。

ところで、昨日の「ユーリの部屋」に書いたことで、続きと補足があります。

スリランカ系のメソディスト司教さまのご自宅で持たれた家庭集会にて、Goh Keat Peng氏とお会いした件ですが、あの当時はまだ20代で若かったこともあり、私は本当に怖いもの知らずだったんですね。今なら、社会の中での位置づけと意味がわかるだけに、かえって後さずりしてしまうかもしれません。

ただ、あの夜のことは今でもよく覚えています。華人中心の集会だったのですけれども、最後に「今日はうれしいお知らせがあるんですよ、皆さん!」という呼びかけに、なぜか私が名前入りで紹介されたのです。前もってお電話で参加許可をうかがっていたからでもあるのですが。「日本人女性が、私達のこの集会に来てくれたんです。では、自己紹介をどうぞ」と言われ、びっくりしたものの、取りあえず立ち上がって、英語で簡単に自己紹介をさせていただきました。すると、Goh氏が近寄ってきて挨拶してくださいました。当時の記憶では、確か教育省とも関わりのある方だったと思います。そして、この度立候補することになった友人が飲み物を持って来て、親切にも「何か困ったことがあれば、いつでも電話をください」と名刺をくれたのです。実は、私達は、それがきっかけで知り合いました。司教さまも、とてもおおらかで大きな器の方で、フルーツポンチをお庭で振舞ってくださいました。奥様は華人で、控えめながらもにこにことよい方でした。この司教さまは、後にジュネーブなどでも活躍されています。帰宅後、お礼のカードをお送りしたら、すぐに丁重なお返事が届き、「いつでも私達の教会や集会に来てください。あなたが参加したことは、私達の大きな喜びでした」と書かれてありました。

単純な私は、それが教会で重責にある方たちのプロトコールであることを知らず、喜んでホイホイと、その後もメソディスト教会に行っていました。その家庭集会の件も、元はといえば、教会週報を見ていて案内が書いてあるのに気づき、(これは)と感じたので、ためらいもなく司教さま宅にお電話したのが、契機といえば契機でした。若いというのは何とも無知で無礼で、だからこその強みもあるわけですね。そもそも、現在のマレーシア教会協議会の総幹事が私に個人的に連絡をくださるのも、私がこの司教さまの家庭集会に出席した経緯があるからでもあります。お二人とも同じメソディストですから。そして、この総幹事が上記友人の息子さん三人に洗礼を授けた牧師というわけです。

ずっと後になって、2005年に総幹事は、ある大学の招聘で京都にも来られました。もちろん私の処遇については、総幹事の帰国後、友人にも伝わり、彼からメールが届きました。2006年11月にお会いした時、友人は一言、「残念だな。日本の大学は、どうしてもっと視野を広く持たないんだろう。なぜ、世界的なキリスト教文脈の中でマレーシアの問題を位置づけないんだろう」と言いました。

このように、世界は広いようでいて狭く、狭いようでいて広いのですが、この友人のおかげで、私もずいぶんいろいろなキリスト教人脈と情報をいただくことができ、どれほど助けられたことかわかりません。

ただ、問題は、こういう利便を与えられているのにもかかわらず、日本の研究会で発表しても、初めの頃はなかなかその意義がわかっていただけなかったことです。もちろん、一部にはいち早く気づいてほめてくださった先生方もいらっしゃいましたが、全体の流れとして、最初の頃は、(いえ、最近でも?)まるで的外れなコメントが多くて、それをどうクリアするかにエネルギーを費やしていたのが、自分でも悔しく思います。だから、このブログで繰り返しているように、よき師につくことと、自分に合った教会に連なることが大事なのです。単なる私的な不平不満をぶつけているつもりでもありません。どうぞその旨、お汲み取りくださいますよう...。

さて、話を元に戻して、家庭集会で何が語られていたのかについて、少し言及させていただきます。「マハティール政権下でマレーシアは急激に進歩したかのように言われるけれども、まだまだ発展途上である。その理由は...」という内容で、マレーシア初の国産車と喧伝されているプロトンは、実は三菱自動車の開発である、という実例などが挙がっていました。これは、集会に参加した人々が一様に反応し、うなづいたり笑ったり、非常に盛り上がる話だったので、よく覚えています。日本人の私にとっては、マラヤ大学勤務中に、同僚とマレーシアの三菱自動車工場も見学していたので、別にわざわざ言われなくても、という内容だったのですが、日本側の視点ではなく、当時のマレーシア華人からこのことが語られていた点に、むしろ注目したいのです。

なぜならば、その数日後、たまたま会ったマラヤ大学のマレー人の先生と気楽なおしゃべりの最中、「プロトンって、実はマレーシアの国産車ではなくて、日本製だと聞きましたが」と、悪気もなく口にしてしまったところ、即座に「それを言っているのは華人でしょ?」と強い調子で抗議されてしまったからなのです。日本人は、いわばマレーシアを援助している側であり、自分達の経済活動の場を広げる一手段でもあり、戦時中のお詫びと償いの意味もありますから、通常はそういうことをマレーシアでは言わないものです。たまたま私の場合は、企業派遣ではなく大学関係だったのと、実家も三菱自動車と無関係で、その先生も経済学の関係でもなかったため、つい気軽にそう言ってしまったのですが、あの反応には驚きました。これが、マレー人との付き合いの困難さだな、とも思った次第です。今だからこそ書けることでもありますが。

もう一点、その家庭集会で記憶に明瞭なエピソードが、マレー語を媒介とした教育の問題点です。今でこそ、学校制度も変化しましたし、言語問題はそれほどセンシティヴ扱いされなくなってきたので、若い世代にはピンとこないかもしれませんが、当時これも、非常に公に発言し難い問題でした。実は、友人が挙手して「いや、マレーシアの教育問題のネックはバハサ(Bahasa)だ。やはり英語に戻すか、英語での教育を認めていかなければ、マレーシアは遅れたままだ」と発言したのです。一瞬、場がしいんと静まり返ったのが忘れられません。これだ、と思ったんですね、私。そもそも彼と親しくなったきっかけは、持って来てくれたジュースを飲みながら、私が「でも、先程のご発言は勇気あるものでしたね。感銘を受けました」と言ったことです。彼はただ笑って、天を指差し「だから大丈夫なんだよ」というジェスチャーをしました。そこで通じ合ったところに、友情が芽生えた秘訣があったのでした。

こうしてみると、マレーシアのキリスト教が、マイノリティでありながらも、確かに社会の中で一定の力を持ち、マレー当局が恐れている理由がうかがえるかと思います。
ともかく、総選挙が平穏に滞りなく行われ、しかるべき結果が出るよう遠くから見守るしかありません。どんな結果になろうとも、少なくとも、暴動だけは防止されますように。1969年の再現だけは可避できますように。