ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

紅葉の秋 実りの秋

もうすぐ結婚記念十周年。その一週間前に私の誕生日が来ます。「もう十年か、早いねえ」と、何度も同じことを主人と言い合っています。

大したことは何もしていない平凡で単純な日々だと思っていましたが、こうしてブログ日記を立ち上げてみると、結構、書くことは毎日あるものです。しかも、電子文字を通して世界に公表(?!)しているのですから、日々の意識の持ち方が多少は違ってきます。
それ以前は、読書以外に、人様のブログやホームページを読んでは圧倒されたりため息が出たり、そちらの方で忙しくしていました。当たり前のことですが、世の中は広くていろいろな価値観が交錯しています。有形無形の関わり合いによって、社会や国々は成り立っています。主婦になってみて、気づかなかったことに気づき、視野が広がったのも事実です。であればこそ、(こんな自分でも何か書けるかもしれない、日々のささやかな思いを表現してみよう)と始めてみました。文明の利器に感謝!

実は、ずっと前から主人に「自分のホームページを早く開きなさい。できれば海外の大手サイトを使うといいよ」と言われ続けてきたのですが、(悪意的な批判が来たら怖いな)(もし、いたずらメールでいっぱいになったら困る)(陰で笑われるのでは)など余計なことばかり考えて、足踏み状態でした。すると主人は、「ユーリは、考えすぎるとロクなことないから、気にせず始めてみたらいいよ。中には変なコメントも来るかもしれないけど、小さな研究会で言われたことを拡大解釈しているより、もっと広くいろんな人に考えを知ってもらった方が、絶対いい。第一、ユーリがいつも家で話していることや研究しているテーマって、僕から見たらおもしろいと思うけどな。専門家じゃない方がかえっていいんだよ」と背中を押してくれました。こう書いてみると、なんだか、とってもデキた夫のように見えますから、不思議なものです。

最近、アクセス数を表示するようになり、毎日、予想よりも数値が上がっているのに驚いています。内容は平凡だし、地味だし、堅苦しいし、偏りもあるし、特に注目を浴びるような目立った意見も含まれていないので、もしかしたら、自分が一人でアクセスするだけじゃないかな、と内心思っていたのですけれども、案ずるより産むが易し、やってみなければわからないものですね。また、アクセスしてくださった方は、ご自分のホームページに印象に残った一文や感想を書かれていますが、これは良い方法だと思いました。ありがとうございます。

ところで、家の本棚から古い本を取り出して読み始めたら、これが結構おもしろいんです。1998年2月17日に駅前の小さな書店で買った、海音寺潮五郎司馬遼太郎(対談)『日本歴史を点検する』(昭和44年12月)講談社文庫(1974年第1刷/1996年8月第34刷)です。

ちょっとだけ拾い読みしてみますと…。

海音寺:学者ってそういうもんですよ。今の学者だってそうですよ。日本が嫌いでロシアが好きだったり、中共が好きだったり、ナチドイツのさかりの頃はナチドイツが好きだった人さえいます。いつでも学者ってそういうものですよ。自分の学問によって一つの理想的かたちを描いて、それが現実のロシア、現実の中共と思いこんでいるのです。それは彼らの観念の中にのみあって、決して実在はしていないんですのにね。 (p.21)
司馬:江戸は文化といっても遊芸などが発達したが、学問文化は地方々々にむしろ無数に中心がありましたですね。封建体制のおもしろいところだと思います。(中略)江戸っ子だというと、「だめだよ、お前たちはすぐあきてやめる。語学のような、砂を噛みつづけて何年かでやっとモノになるような学問は、田舎から来た根気のいい連中でないと駄目なんだ」という。(中略)地方の藩の方が、教養、文化があるんだということですね。(p.25-6)
司馬:数代続いた教育の名家が、いまは故郷に退隠して、一族の娘さんが畑仕事をしておられる。なんともいえぬ日本的ないい風景ですねえ。(p.36)
海音寺:格式というものは、世の中がおだやかになった時、同時に活動が停止した頃できるものですからね。生き生きした時代は実力が人間の位置を決定しますから、格式はいらない。実力がものを言わなくなると、格式で位置をきめるのですね。(p.38)
海音寺:ここのところを、歴史家たちがはっきりさせないものだから、昭和軍閥青年将校らの暴走にもなり、今日の全学連の暴走をも生んでいるのだと、ぼくは思いますよ。(p.49)
司馬:スターリン・ロシヤの全盛期、ソ連以外の国にとってマルクス・レーニズムは宗教的絶対性をもっていましたが、ソ連にとっては対外政策上ではきわめて便法といったにおいがありますね。スターリン・ロシヤは帝政時代から続いている国土膨張の本能を一切捨てないばかりか、第二次世界大戦後はいよいよ濃厚になった。であるのに、二流以下の国の共産党は、共産主義理論の純粋性ばかりを考えて、宗教的絶対性にまでその理論を高めている。(p.55)
司馬:左翼用語でいう天皇制というのは、敵としての幻想や幻影を加味したもので、魔物を魔物らしく仕立てるために、事実性から浮きあがらせてデフォルメしているところが多い。そういう多分に作られた「敵像」を通して日本史をみるという態度は、左翼も捨てた方がよいと思います。(p.60)
海音寺:今の日本の議会民主主義は、戦後二十何年やって来てみて、これを否定する声はまだ起こらないが、軽蔑感はもはや国民に共通している。あまりにも弊害が多すぎるというのが、社会の声になっている。こんな気持はエスカレートしていくのが普通ですからね、危険ですよ。(p.64)
司馬:そういう土俗の心理を無視して日本歴史をみることはできませんですね。いいわるいという批判は別です。批判や好悪で事実を見てはなりませんね。(p.66)
海音寺:学者というものは時々妙な論理を組み立てますね。そしてまたそれが一流といわれる学者から唱え出されると、他の学者も盲従しますね。ともかくも黙過している。――学者の世界は奇妙ですな。(p.68)
海音寺:人間を知らなさ過ぎますよ。なにか一つ思いつくと全部それで解釈しようとするんですからね、馬鹿の一つ覚えというやつですよ(笑) (p.68-9)
海音寺:明治の時代は非常に暗い時代だったと、今の多くの学者らが言っているんですが、あの人たちは暗い部分ばかりをあげて、そう説明しているんです。暗い部分―民権運動に対する弾圧、幸徳秋水らに対する暗黒裁判、米価の騰貴、何だかんだと、そんなものばかり並べ立てる。そうすれば暗い時代だったという結論が出て来るのは当然ですよ。しかし、そんな論理構成がマヤカシであることは言うまでもない。デマゴーグの行き方ですよ。 (p.79)
司馬:自己表現の可能性にみちた時代が、やはり明るい時代と言えるのではないでしょうか。(p.81)
司馬:日本の歴史学者マルクス学者がふえて、いまだに続いているのは、朱子学以来の癖が抜けきれないのかも知れませんね。善玉・悪玉、あれでやると歴史が一番わかりやすい。(p.90)
海音寺:学生騒動の最も根本的なものは、学生らは現実に即して考える能力を欠いているから気がつかないかも知れないが、実はここにあるのかも知れない。(p.111)
海音寺:回教はひどいですよ。ぼくは南方で見て来たんですが、彼らは実に善良なんですが、自動車の運転手なんか使っていると、危なくてしようがないんですよ。(中略)マレー人はごくのん気で享楽的で、極楽トンボな民族ですが、回教の戒律だけには、実に忠実です。しかし、回教徒にかぎらない。南方の諸民族は皆厳格な宗教民族ですね。(中略)南方で宗教から自由なのは、中国人と日本人だけです。この両民族の宗教には何の戒律もない。(p.122-3)
司馬:まったく世の中というのは過ぎ去ってみれば他愛もない面もある。(p.142)
海音寺:織田作之助が「可能性の文学」ということを言い出しましたね。そしたら、どこへ行っても皆そう言っていましたね。しかし、小説というものは、可能性の限界まで書くのが本則で、そうでない小説が特殊なんで、新しい意味もなければ、新しい型の小説が始ったわけでもない。自分の無智のために新しい言葉に飛びついたに過ぎない。奇妙なことですよ。近頃の学生のいう「自己批判」は「反省」でしょう。「自己否定」は「滅私」でしょう。ぼくら年代のものにしてみれば変える必要はないと思うのだが、むやみに新しいことばにかえますね。(p.173-4)
海音寺:文部省に国語科というのがありますが、あそこなぞ、日本語を簡略化しようと変なことをやっていますが、こういう国民の根性を変えない限り駄目ですね。(笑) (p.180-1)
海音寺:自らの文化に自信のない民族は、いかに経済的に繁栄しようと、品位に欠けます。それでは一流の民族とはいえません。(p.186-7)

ご参考までに申し添えると、海音寺氏は、1941年に陸軍報道班員として徴用され、約1年間マライ(馬来)にいらしたことがあったようです。ただし、翌年には健康上の理由から帰国されたとのことです。
司馬遼太郎氏については、我が家とちょっとした関わりがあります。主人の母方の祖父が存命中、司馬氏のある作品で、祖先に連なる家系の記述に間違いがあるとのことで、司馬氏に指摘の手紙を送ったのだそうです。けれども、返事を待っても来なかったとか。そうこうするうちに、祖父も司馬氏も亡くなってしまいました。

古典でなくとも、古い本は、読み返すたびに新しい発見があっておもしろいです。買った当初は気づかずに読んでいた箇所が、今は別の観点からの意味が加わって理解が進む、ということも多いですから。近頃の本より、活字が小さくて中身もつまっているように思います……読書の秋。