ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

大エルミタージュ美術館展

昨日「ユーリの部屋」に書いた「音楽レッスンの思い出」は、こちらの想像以上に反響が大きかったようで、たくさんの方に閲覧していただいた模様です。ちょっと批判的というのか、昔の先生方の悪口を書いてしまったので、自分としても心苦しいのですが、今の若い日本人音楽家が、実にのびのびと演奏活動に従事されているのを遠くから見ていて、実に隔世の感を覚えるのと同時に、音楽教育に関しては、当時より今の方が格段に状況が改善していることを背後に匂わせたつもりです。

今年の3月14日から二ヶ月間、京都市美術館で大エルミタージュ美術館展が開かれていました。主人と一緒に私も、連休中の5月3日に見に行きました。ごった返す人々に混じって、順序立てて説明書きと絵を眺めるのは、大変疲れましたけれども、緻密でありながらもわかりやすく有名な絵画が多く、楽しめました。恒例の習慣として、気に入った絵葉書を二枚ずつ組で買い、思い出としました。一枚は、急ぎの簡単なお礼状を書くのに使い、残りは自分用の記念として保存するのです。

こういう催し物は、(行けるうちに、仮に興味がなくても、行っておくものだな)と改めて思ったのは、『ショスタコーヴィチの証言』を読んでいた時です。ショスタコーヴィチが、戦争の専門家である軍人のトゥハチェフスキィという人と、エルミタージュ美術館に絵を見に行った、という記述の辺りです(p.151)。

この戦争専門家は、後にスターリンヒトラーの協力(共謀?)によって銃殺されたのですが、その時のショスタコーヴィチの強い衝撃の部分を読み、(私が見た絵を、トゥハチェフスキィとショスタコーヴィチも、かつて一緒に見ていたのだ)と思うと、この事件が、単なる遠い国で起こった歴史上の一点ではなく、日本の平凡な一市民に過ぎない私と、今でも間接的にどこかでつながっているような気がしました。

そういう感触が、この頃、音楽を聴いても本を読んでも、とみに増えてきたので、やはり人生は長生きするに限ると思います!若い頃は、いくらヒトラーだのスターリンだのと学校で習っても、目の前の試験が心理的重圧となってのしかかっていたり、下手な教師によって理解度が左右されたりするので、知っていることや学ぶことの真の意味がわかってくるのは、もっと後年になってからだということなのです。

普段の私の生活は、ほとんど単独で過ごすことが多いです。一人でいても、することがたくさんあり過ぎて、毎日時間が足りないぐらいで、特に淋しいと思うこともないのです。逆に言えば、物理的には孤独なように見えても、心理的精神的に、現在過去未来のさまざまな人と、濃淡のつながりを持っているつもりなので、「私は一人で生きているんじゃない」と思えるわけです。これは、エネルギーの充満した若い時代には、想像したこともない経験ですが、この歳になると、非常に大切な素質だろうと、我ながら思うようになりました。老後もこの調子で「淋しくない」といいのですが…。