ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

音楽レッスンの思い出

「そりゃ、よくない先生についていたんだよ。先生自身が知らないから、そう言っただけなんだよ」

幼稚園から大学院1年まで通っていた音楽学校の先生達の話をすると、決まって主人がそう言います。今だからこそ私も同意しますが、当時は、「クラシック音楽」「ピアノを音楽学校で習っている」というだけで、本質から離れたイメージが、音楽を学び教える世界の中でもまかり通っていたのが、昭和40年代から50年代頃の日本の、と言って悪ければ、名古屋の音楽学校の実態だったのです。

親も自分も、プロになることの厳しさを小さい頃から知っていたので、もちろん、音楽は趣味というのか、単に人生の楽しみで学ぶつもりでいました。「音高や音大の受験生ではない」ということで、優秀なあるいは高名な先生につく機会から外されていたのだろうと思います。その代わり、レッスンで言われた通りに、まじめに毎日練習していったので、小学校5年生の時に教わっていた男の先生から「君、将来どうするの?今からじゃ、受験(つまり音楽系の学校に進むという意味)はちょっと遅いんじゃない?」と尋ねられ、「いえ、私、中学までは公立に行って、高校は進学校普通科のつもりです」と答えると「シンガッコウ?それ、神様のこと勉強する学校?」なんて聞き返されて、唖然とした覚えがあります。

当時の若い女性の先生は、2,3年ですぐ結婚あるいは出産のために退職、というパターンが多かったので、こちらが安定して同じ日の同じ時間にレッスンを続けていても、先生の方がくるくる代わり、そのたびに、同じ曲でも指示が異なるという迷惑がありました。というわけで、いろいろな先生につきましたが、この男の先生だけが唯一、小学5年から高校までの最も長い期間、教えていただきました。ただし、ピアノ科卒業ではなく、フルートとクラリネットが専門でした。

その先生は男なのに文句の多い人で、理事長の悪口とか、お父さんが「お前を医者にしたかったのに、どうして音楽なんか、と今でも言う」とか「ドイツに留学したかったけれど、ドイツ語ができなかったから行けなかった」とか何とか、たかだか30分か40分のレッスン時間に、そういうつまらない話をすることがありました。途中で、同僚のピアノの先生と結婚したのですが、最初は仲むつまじくしていても、赤ちゃんが生まれた直後ぐらいから、どうしようもなく冷めた雰囲気が漂っていて、こちらまで結婚のイメージが崩れそうになったことまで覚えています。出身校は、国立音大でした。

その次についた女性の先生は、二人続けて武蔵野音大でした。最初の先生は「あなたはもう大人でいらっしゃるし、普通大学でお勉強なさっているし、いったい何の目的で、ここまでピアノを習おうとするのかわからない」と初っぱなからおっしゃる人でした。「小さい子なら、最初から教えられるから楽なのね。そして、音高や音大を目指す受験生なら、私もその道を歩んできたから、教え方もわかるのね。でも、あなたみたいな人は、一番困っちゃうというのか、どうしたらいいかしらねぇ...」とレッスンを引き受けておいて、月謝を払っているこちらが恐縮しなければならないようなことを言われました。要するに、音大ピアノ科を出て音楽学校に就職してみたけれど、音楽教育のイロハもわかっていないし、教授法も知らない、ということを宣言しているような、今の私なら、こちらから堂々と熨を付けて返却したいような先生でした。それでも、その先生がおっしゃることを真面目に練習していき「私、もうすぐ結婚するんです。富士通って聞いたことある?そこに勤めている人なんだけど...」とうれしそうに言われるまで、続けざるを得ませんでした。他に選択肢がなかったのです!

その次に新しく入ってきた先生は、もう少しはフレッシュなやる気のある人だったので、最初は話が少しは合うかな、と思っていました。私より3歳年上だったので、先生の方も、子どもよりは話し相手に適当だと思われたのかもしれません。

一人っ子だったため、親が外国製の高いピアノをポンと買ってくれ、小学校の頃から、毎日遊ばずに5,6時間の練習を続け、県立高校の音楽科を経てストレートで音大を出ても、就職が大変厳しくなっているという経験談でした。そのために、ピアノ奏法とピアノ教育の資格試験(ヤマハやカワイ楽器が施行しているもの)を受けたり、普通学校の音楽の教育実習もして、少しでもプラス点をアピールしなければ、実家の一室で近所の子ども達にお小遣い稼ぎ程度に教えることぐらいしか、道はないのだという話は、当時の私にも良い意味での刺激がありました。つまり「やはり音楽は、趣味にしておくのが一番」ということと同時に、「若いうちに、何でも勉強できるものは勉強して力をつけなければならない」ということでした。「プロフィール欄」にいろいろ書きましたが、それもこれも、この時の先生の話が機縁となって、ちょっと頑張ってみたという(と言っても、全くたいしたことはないのですが)ことの名残です。しかし、その先生にしても、私が大学院に進み、かつ、先生が取得したという奏法と教育の資格試験の最低級に合格し(先生はもちろん最上級まで取得)、次の上の級を受けたいと言い出した時には、「あなた、音楽というものを何だと思っているの!私がどれぐらい苦労してやってきたか、考えたことあるの!」と叫び出しました。それを機に、とうに分別のついていた私は、さっぱりした気持ちで、その先生につくのをやめることにしたのです。一度は、サクラの客として、無料で先生とそのお友達三人の演奏会にも時間を割いた私でしたが....。

何というのか、人の能力ややる気を伸ばす手助けをプロフェッショナルに行うのが教師というものなのに、当時の私の音楽の先生達は、本当にくだらないことを言う(失礼!)未熟な人が多かったですね。子どもにこそ、一流のものを与えなければならない、というのは本当だと思います。私は、これらの先生達に、5歳から23歳まで、毎週欠かさず会い続けていたのですから、その甚大なる影響力が、私の人生をマイナス面の振り子に振っていたと言えるのかもしれないではないでしょうか??

マレーシアから帰国した後に、しばらくついていた芸大名誉教授の女性の先生は、さすがにそういう子どもっぽいことをおっしゃる方ではなく、音大出身でもないのに、私が毎月一回レッスンに通うことを、それなりに認めてくださいました。ある日、他の二人(この方達は、音大出身の奥様)が遅く来られた時、少しおしゃべりしていたら、「私の頃は、ピアノなんてやる人が少なかったから、こうして仕事が続けられたのよ。音大でも、本当に音楽を極めたいというよりは、女の子のお稽古事の延長のような感じで、少し裕福なお嬢さんだと、本人の適性以上に、親がやらせていたわね」と述懐されました。確かに…。

音楽学校での毎年の発表会でも、発表会直後に先生が寿退職されることがわかっていたので、父などは厚化粧に着飾ったドレスの先生を見て「なんだ、小娘のお遊戯会か」とがっかりした様子でした。そういう雰囲気だったので、私などはむしろ、マイペースではあったものの、一生懸命練習したのだろうと思います。

しかし当時は、「輸入版の楽譜を試してみようか」などと先生がおっしゃるぐらい、音楽を学ぶ環境が未整備だったように記憶しています。輸入版といっても、ショパンならパデレフスキー版とか、バッハならヘンレ版かペーター版かなど、その程度でした。つまり、英語とドイツ語で書かれていれば、日本の全音版や春秋社版より「高級で質がよい」という印象を、先生自身が植え付けていたのです。

第一、「次はこの曲ね」と与えられる曲そのものが、一体、どういう背景を持つ曲で、作曲者のどのような人生段階で生み出されたものなのか、こちらは知る由もなかったのです。レコードだって、入手できるものばかりではありませんでした。考えてみれば、ずいぶん乱暴な話です。ただ、やみくもに「譜読み」して、指を間違いなく正確に動かして音を出す、その繰り返しを続けてから、「暗譜」。それがミスなしでできれば、次の曲に進む。こんなことをやっていたのです。

ずっと後に、ある国立大学で留学生に日本語を教えることになった時、ロシアからの音楽(邦楽)専攻の留学生が「ロシア流ピアノレッスン」の話をしてくれました。ずっと練習ばかりしていると、ある時にはスランプになり、どうしても弾けなくなることがあります。日本の私の環境なら「それでもさぼるな」という叱咤激励だったと思うのですが、ロシアでは先生自ら「じゃあ、しばらく別の勉強をしましょう」と言い出し、森などの自然豊かな場所に散歩に連れ出したり、文学書などの本を読書用に与えたりするのだそうです。それを聞いて、本当にうらやましくなりました。私だって、そういう教育的配慮に満ちた先生方に恵まれていたら、ずいぶん人生が変わっただろうに…! いえ、プロになっていたとかそういうことではなく、人生観がもう少し深く広く豊かにされていたのではないか、と思うのです。

しかし、その話を先述の奥様達とのグループレッスンでしたら、「それは上手な人の話でしょう?」と一人に言われてしまいました。下手な人にこそ、そういう手当てが必要なのに、と思ったのですが…。こういう話をしているレベルだから、まだまだ日本の音楽教育はダメなんだなあ、と感じた次第です。

今は、関西(大阪、京都、神戸、西宮など)ですら、演奏会も選べるほどいろいろあります。楽譜には丁寧にCDまでついていて、譜読み以前にメロディを覚えることが簡単にできます。楽しい音楽の読み物も、テレビの教養音楽番組も増えてきました。欧米に出かけて演奏会を楽しむのも、決して一部の暇でお金のある人の特権では、もはやなくなりました。我が夫ですら、タングルウッド音楽祭に何度も行ったというぐらいなんですから…。

クラシック音楽を、その発祥の地が西洋にあるというだけで、何やら高級な教養に祭り上げ、舶来物奉り主義にしてしまったり、精神修養の場にしてしまったり、私の世代は何やら犠牲にされたものが多過ぎ、残念でなりません。