ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

わだつみ会とマレーシア

午前中、『わだつみのこえ』冊子(日本戦没学生記念会機関誌)最新号が届きました。
2003年11月に「わだつみ会」に入会して以来、機関誌購読とわずかな送金と投稿程度しかしていませんが、毎回、いろいろと考えさせられることが多く、戦争回避のための緊急努力が求められていると強く感じます。誌上には、政治思想的に、必ずしも全面同意する文章ばかりが掲載されているわけではないとはいえ、それぞれの人生経験の差異と教育背景の相違を踏まえつつ、さまざまな角度から勉強させていただいています。

今号で一番考えさせられたのは、硫黄島の玉砕に関する生き残り学徒兵の記事です。昨冬に見たクリント・イーストウッドの映画「硫黄島からの手紙」や、その後読んだ半藤一利・解説『栗林忠通 硫黄島からの手紙文藝春秋(2006年)、梯久美子著『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠通』新潮社(2005/2006年)などとの印象とはやや違っていました。それについは別途、投稿文にまとめたいと思います。

「わだつみのこえ記念館」の開館は2006年12月1日だったそうですが、12月9日10日に、東京大学本郷キャンパスでの学会に出席した際、記念館にも立ち寄りました。東京は道が狭く、最大有効利用した土地に建物が密集しているので、大学から歩いてすぐのマンション1階にあるのを見つけた時には、ちょっと気が抜けました。残念ながら休館時でしたので、周辺写真だけ撮って、すぐ裏手にある作者の樋口一葉ゆかりの寺(法真寺)を見て回りました。一葉は、5歳から5年間ほど、この寺の隣の家に住んでいたのだそうです。『たけくらべ』『にごりえ』早く読んでみたいなぁ。意欲はあっても、なかなか思うように時間が取れませんね。

さて、わだつみ会ですが、入会のきっかけは、やはりマレーシアとの出会いが大きいと思います。真珠湾攻撃は有名ですが、その一時間前に、マレー半島北東部のコタバルに日本軍が上陸したという事実は、案外忘れられやすいものです。

岩波文庫新版 きけわだつみのこえ−日本戦没学生の手記』(1995年)を読んで最も強く揺さぶられたのは、シンガポールチャンギ刑務所で、上官の罪をかぶる形で、京都大学経済学部のご出身である木村久夫氏が、1946年5月23日、陸軍上等兵として28歳で処刑された話です(p.443-467)。
辞世の句の一つ

「指をかみ 涙流して遙かなる 父母に祈りぬ さらばさらばと」

処刑前夜の二首

「おののきも悲しみもなし絞首台 母の笑顔をいだきてゆかむ」
「風も凪ぎ 雨もやみたりさわやかに 朝日をあびて明日は出でまし」
処刑半時間前擱筆す。

(以上、p.466より)

せっかくのブログ日記ですので、ここで私の朝日新聞への投稿文も披露させてください。
2005年12月17日付『朝日新聞』朝刊(大阪本社版)「声」欄に「コタバル」と題した投稿二つが載りました。上に拙文、下に埼玉県秩父市にお住まいの77歳の女性の投稿が配置されたのですが、まずは、その方の文章を引用したいと思います。

真珠湾の日に散った兄の文


兄が陸軍士官学校を卒業して2年後の1941(昭和16)年12月8日、コタバル上陸作戦に参加し戦死しました。23歳でした。
初陣で戦死した息子を悲しむ母。真珠湾だけ華々しく放送するラジオと各新聞の大見出しの写真を前に、母は「なぜ、同じ日の戦いなのに」と嘆きました。64年を経た今も、ありありと目に浮かびます。
兄が最後の帰省で故郷の山形に帰ったのは41年9月中旬。女学校1年生だった私を連れて、親類に挨拶回りをしました。将校の姿で闊歩する兄に遅れまいと、懸命に付いて歩きました。
あの時から1カ月後、兄は母に内密に手紙を渡していました。「この秋遅く、日本は更に大きな戦いになります。相手はアメリカとイギリス。僕は初陣になります。九分九厘生きて帰れないでしょう。お母さん、このことは妹たちや近所の人に絶対口外してはなりません。国家の機密ですから」と。

(引用終)

次に、拙稿の引用をお許しください。

「マレーシアを学び続けたい」


8日の本紙社説は、太平洋戦争開戦について、真珠湾攻撃より1時間ほど早い英領マレー半島への上陸に触れておられた。マレーシアに長く関心を持つものとして感謝している。
十数年前、マレーシアで3年間、学生に日本語を教えていた。断食明けの祭りの時、日本軍が上陸したコタバルの海岸に、地元出身のマレー人の先生に案内していただいた。黒いトーチカが波に洗われていた。
記録映像で見た陸軍の様子を想起していると、マレー人のおじいさんが「日本人かね」と聞いてきて、毎年、旧日本兵の団体が慰霊祭にここを訪れるのだと話してくださった。
滞在中に親しくなったあるインド系の家庭は、中国広東系のおばあさんをメードに雇っていた。私が訪問する度に歓迎のキスをしてくれた。後に、自分の目の前で日本兵に夫と幼い娘さんを殺されたのだと、奥様から聞かされた。戦争の傷跡はあちこちで感じた。
あの戦争は一体何だったのかという問いかけへの私なりの答えとして、自分の中で歴史を風化させないためにも、細々とこの地域に関する学びを続けている。

(引用終)

この投稿は、意外にも周囲の先生方の目にとまったようで、マレーシア研究会のY先生、以前、このブログにご登場いただいた同志社大学神学部の原誠先生、名古屋で大変お世話になったアジアエートス研究会(2003年をもって閉会)の戸谷修先生、(財)日本クリスチャンアカデミー関西セミナーハウス所長(当時)の田中紀代三先生から、それぞれ「読みましたよ」とのご連絡をたまわりました。

残念なことに、2007年7月10日付の同新聞朝刊の「アジアの街角」シリーズ「コタバル2<マレーシア>」には、愕然と脱力する思いがしました。以下、その記事全文を引用いたします。

1941年12月8日未明、旧日本軍が太平洋戦争の口火を切って奇襲上陸したのが、コタバル北方の海岸だ。約5千人の上陸部隊は、当時マレー半島を植民地支配していた英国駐留部隊との激戦の末、シンガポールに至る半島攻略の足がかりを築いた。
奇襲上陸の記念碑が海岸にあると聞いた。だが、地元の人が教えてくれた場所に行っても、それらしきものは見あたらない。途中、日本兵の墓だと案内された墓地には、中国系住民の墓石が並んでいた。
やっとたどり着いた上陸地点。元漁民のフセインさん(68)とチェクマさん(70)=写真=が海を見ていた。「日本軍上陸の記念碑は?」「流されちゃったよ。20年も前になるかなぁ」とフセインさん。
日本人にまつわる思い出を聞くと、「それが覚えていないんだ。日本人も英国人もあっという間に行ってしまった。しょせん我々の戦いじゃなかったからね」とチェクマさんは話した。

(引用終)

この話は、まともに信じたらとんでもないことになると思います。
(1)まず、この記事は無署名なので、どなたが書いたのかは不明ですが、恐らくは若い方なのではないかと想像されます。ですから、質問の仕方が曖昧で間接的で、もっと相手から引き出す具体的な問いができなかったのかもしれません。
(2)次に、クランタン州コタバルは、約9割の人口がマレー人という構成ですが、もしこの記者が、わずかながら住んでいる華人にインタビューしたならば、全く異なる返事をされただろうと思われます。なぜなら、水拷問などの悲惨な経験は、このコタバルでも華人が対象とされたからです。実際に、94年から95年にかけて再びクアラルンプールに留学していた頃、同じマンションの隣に住んでいたコタバル出身の福建人女性は、戦時中の話をよく覚えていました。
(3)概して、ムスリムであるマレー人に対しては、日本軍で「東洋の宗教である回教(イスラーム)を尊重するように」との訓辞があった節があります。その上、中日戦争との絡みで、華人とは異なった配慮をしていたようです。
(4)拙稿に書いた「地元出身のマレー人の先生」は、当時の華人に対する日本軍による拷問を、聞き伝えでよく覚えていて、私に話してくださいました。

先日、香港から東京へ突然やって来た、ペラ州出身の華人の友人も、電話でのおしゃべり中、来日して日本人が礼儀正しく丁重なのに驚いたという話をして、「うちの父が昔よく言ってたのよ。日本軍がどんな水拷問をしたかって。人を寝かせて、口からホースで水をお腹がふくれるまで飲ませて、ふくらんだお腹の上を足蹴にしたとか何とか…」と付け加えていました。「当時のこと、ごめんなさいね」と言うと「いいのよ。あの時は戦時中だったから、皆が狂っていたのよ。今回の来日でよくわかったわ」と許してくれましたが…。

マレーシアの民族問題の深化には、日本軍占領時代の民族政策も大きく影響したという指摘がなされています。確かに、マレー人は英領時代も日本軍時代も、そして現在も、常に保護され特権を与えられてきたので、概してのんびりとしていて、過去のこともきちんと記録に残そうという意欲にやや乏しいようです。

それに比して、私のごく限られた経験から、華人のみならずインド系も、日本軍時代のことはよく覚えていたと思います。例えば、ヌグリ・スンビラン州クアラピラーのある山道を車で通っていたところ、「ここは日本軍が造った道なんだよ」と教えてくださったのは、家具工場経営のタミル系男性でした。その人のお母さんは、戦時中、日本軍部の事務アシスタントの仕事を手伝っていて、道中で見聞きしたことを、帰宅後、子ども達、すなわち、その男性や姉妹達に話したのだそうです。「妹達は、こわがっていつも泣いていた」とのことでした。それでも皆さん、私個人には大変親切にしてくださったのです。このように、戦時中の記憶や理解に関する民族間の相違は、マレーシアを知る上で、忘れてはならない基本点だろうと思います。

ところで、国際聖書フォーラムの講義内容、ちっとも入れませんねぇ。毎日プログラム満載で「楽しく暮らしているユーリでしょ?」と主人にもからかわれるのですが、いつまでも約束破りではいけません。明日はどうなるか…。ともかく、たゆたう波に身を任せて、ゆっくりと確実に前進できれば、と思います。