ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

リサーチと人間関係

昨日はキリスト教史学会から学会誌が届きました。

阪神淡路大震災における教会」という公開シンポジウムの報告や、内村鑑三と新渡戸(太田)稲造のアメリカ滞在期経験や中国・台湾でのキリスト教問題など、興味深いタイトルの論文や研究ノートが多く掲載されています。入会を勧めてくださったRさん、どうもありがとう!
昔は、例えば国文の中世文学なら中世のみ、と限定した範囲を一生研究するというのが通例だったのですが、今や隣接分野や狭間分野の融合で、新学際領域が大流行。私のように学生時代からどうも自分の焦点が定まりきれず、また狭い分野におさまることに常に不安を覚えるタイプにとっては、ありがたい時代になってきました。とはいえ、基礎的な訓練と根本原則は、常に大切にしたいと思います。

マレーシア出身の友人ですが、昨夜40分ほど久しぶりに長電話しました。「あら、声が若々しいじゃない?」って、だってここは私の国ですもん。マレーシアのリサーチでは、毎日本当に疲れていたんですね。申し訳ないことをしました。確かに、自宅からの電話だと、ツルツルよどみなく英語も出てくるし、とても楽しく話が弾むんです。先日の国際聖書フォーラムでの不器用さは、やはり会場の雰囲気で緊張していたのでしょうか。

京都大学東南アジア研究センター(現:東南アジア研究所)で、1993年と95年に夏期セミナーを受けていた頃、文化人類学の先生方から懇々と聞かされたことがあります。「いいかね、我々が現地をフィールドワークすることによって、その場所の人間関係を壊して回っているんだよ。迷惑をかけながらの調査だということを、よくわきまえるように」「しばらく村に滞在していると、その村での力関係や人間関係がだんだんわかってくる。リサーチャーとしては、八方美人的に上手に立ち回らないと情報がとれないこともあるけれど、自分が当事者の仲を裂いているかもしれないことを忘れずに」ということでした。

確かに、聖書翻訳をめぐる人間関係でも、同じようなことが言えます。このブログ日記では詳細に触れられませんが、組織内での地位をめぐる争いや言語能力の差異からくる葛藤などは、当然のことながら、マレーシアでも珍しくはありません。

外国人リサーチャーとしての私は、単純に、正確な情報をできるだけ多方面から得たいという目的が先行しているので、相手から拒絶されない限り、誰とでも親しくありがたく交流することにしています。しかしながら、リサーチの過程では、自分の他に誰と会ったかと聞かれたり、あの人はかくかくしかじかだと否定的な話を聞かせられたりとか、時間が経つにつれて、人間模様が自然といろいろ見えてくることがよくあります。もっとも、大人同士なので「あの人に会うなら、もうこれからは教えてあげない」などという話にはなりません。ただ、こちらも気を遣うので、疲労困憊することは確かです。公平かつ中立であろうとするのは、大変難しいことですが、原則は誠実さだろうと私は考えています。誤解はやむを得ないとしても、常に正直に真っ当に行動していれば、悪意がない限り、いつかはきっとわかってもらえるだろうという希望を持って対処するしかないと思うのです。また、リサーチ目的以外のさまざまな頼まれ事にも、できる限り応じるような余裕と柔軟性も必要かと思います。

なぜこんな話になったかといえば、先の電話の最中、先日の国際聖書フォーラムで公式招聘されたA氏と彼女との間で、かつて聖書翻訳のある箇所をめぐって激しい論争があったということを、彼女が思い出して口にしたからです。実は、その箇所については、私も読んでいて自分で気づき、(あれ?どうしてこんな訳にしているのだろう?)と思ったので、日本語はもちろんのこと、英語版、ドイツ語版、スペイン語版、隣接諸語版を複数参照した上で、わざわざ当地の聖書協会まで電話で問い合わせました。その結果、電話口に出た担当者が「多くの人がこの箇所について文句を言っているけれど、コンサルタント(注:A氏)は、原語の文意がそうなっているので、それでよし、とおっしゃいました。ただ、私達はいかなる批判も受け入れます。よりよい聖書翻訳に改訂していきたいと思っているからです」という模範解答が返ってきました。

京大の先生方には申し訳ないのですが、私、別に人間関係を壊すつもりはありません。このテーマは、マレーシア国内で非常に微妙な位置づけにあり、誰が情報を持っているか不明ですし、仮に情報の所有者がわかったとしても、誰がその人を紹介してくれるか、またその人が本当に教えてくれるかどうかというのは、まさに藪の中で、じっくりと時間をかけて試みなければ、わからないのです。あれこれ関係ないことをしゃべっているうちに、ふいっと「それはあの人が知っているよ」と教えてくれる場合もありますが、用心深い人は最後まで口が堅いというのは、いずこも同じです。当たり前ですが、特に、トップの人ほど容易にしゃべりません。しかし、トップの人が最も確実な情報を握っているのです。

聖書翻訳で、翻訳者同士の競争や論争や仲間割れが起こるのは、中国語聖書の事例で有名になりましたが、日本でも仲間割れとまではいかずとも、相互批判のような議論はあるそうです。私のような部外者は、さまざまな翻訳を読み比べて楽しみ、ついでに翻訳こぼれ話などを読んで不謹慎にも面白がっているのですが、日本のような言語的均一性が高い国ですら、これほどの聖書翻訳と議論があるぐらいなので、東南アジア諸語では、別の意味でさらに大変だろうということぐらいは、すぐに想像できます。上記のある翻訳箇所をめぐる対立については、彼女の話は彼女の話としてそのまま聞き、A氏はA氏の立場からA氏なりの持論を押し通したのだろうと受けとめます。いずれにしても、私のリサーチにとっては双方とも大切な恩人です。お二人なしに理解がここまで進まなかったのですから。ともかく、このような話に別段驚きはしません。むしろ、それが自然だろうと思います。私としては、内部の人間関係を知ってしまったら、自分から問題を深化させないよう、特に配慮するだけです。

ただ、本件に限らず大学の場合でも、途上国と呼ばれる地域から、日本側が講演者や来賓客を会合に招待する時、恐らくは、実態よりも肩書きや職位職階名による人選が多いのだろうとも思います。その国の事情通でなければ、やむを得ないことかもしれません。もしそうであるなら、いくら若手であったとしても、当地に滞在したことのある人に、形の上だけでも一声かけるなどしておいた方が、予備知識として、将来派生するかもしれない問題を回避できるのこともあるのではないだろうかと思います。今は名誉教授として悠々自適の暮らしをされているある先生などは、かつて、ペィペィの私にすら、いちいち確認をとってくださいました。「あなたはマレーシアに住んでいた人だから、念のために聞きますがね、この人について、何か聞いたことはありませんか。どういう人ですか」と。

恐らく、私の意見を本当に聞くためではなく、「こういう機会には、こういう風にするものですよ」という教育的配慮からだったのだろうと思うのです。大学間競争の激化している昨今では、このような礼節は、もはや消えかかっているのかもしれませんが…。

そうでなければ、時によってはやや複雑な思いがすることもあります。例えば「○○氏が来日しました」と伝えると、当地で、人によっては「なんであの人じゃなくて、この人が選ばれないの?」と言うこともあります。対外的には、○○氏の方が有名で肩書きも上位にあることが確かであっても、対内的には、必ずしもそれに見合う評判を得ているとは限らないからです。組織が事実上、機能していないこともあり得ます。これは、双方を知る立場にある者にとっては困るところですが、特に途上国の場合、いわゆる先進国に招待されたとか講演を依頼されたということが、内容はともかくとして、少なくとも形式上は非常に高い業績になるため、当該組織内外でやっかみや嫉妬などが発生するらしいのです。先進国同士でもあると言えばあるのでしょうが、どうも質的に違うように思われます。日本側は、単にアジアへの援助として好意的に処遇したつもりでも、受け手側の当地では、問題の種を蒔いていると受けとめられかねないこともあるようです。

最後に一つ、笑い話のような実際にあった話で締めくくりましょう。

マレーシアの某キリスト教組織の関係者B氏が、日本の某大学の会合に招待されました。私は、数年前からB氏と面識があり、リサーチでもいろいろとお世話になっていました。そのお礼といっては何ですが、時々その組織が基金を募る度に、ごく少額ながら送金したり、機関誌を購読したりして、ほんの僅かに過ぎませんが、いささか協力をしてきました。某大学がB氏を選んだ過程で、私は全くのノータッチでした。プログラムがある程度決定してから、B氏が来日することを知ったのです。ごく自然のこととして、B氏は私との再会を喜んでくれました。

問題は、日本側の某先生が、B氏を見送った後で、「どうしてB氏と知り合いなんですか。B氏は、日本で言えば、キリスト教組織のトップに相当する偉い人なんですよ」と私に尋ねたことです。思わず、私は答えました。「数年前からリサーチでお世話になっているのです。しかるべき方にお聞きしなければ、正確な事情がわかりませんから。それに、日本ではトップに相当する肩書きであっても、あの国では、それ以上の地位の方が複数いらっしゃるのです」。

既に私は論文の中で、B氏にインタビューしたことも名前入りで書いていたのです。その先生は、責任者のお一人であったにもかかわらず、下っ端の私の書いたものなど、目も通してはいなかったのでした。つまり、この先生は、内容や実態ではなく、地位と肩書きだけで人を見ているのだ、ということの雄弁な証左になりはしないでしょうか?これでは、いくら差別問題とか医療問題におけるキリスト教思想を語ってみたところで、本当の支持を得られるとは思いません。

今後は、しばらくお休みしていた国際聖書フォーラムの講義内容に戻りたいと思います。