ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一事が万事

正規雇用の増加に関して(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161018)、賃金格差や待遇差別の問題がしばしば取り沙汰される。
だが、自分の狭い範囲の経験から、事務職の女性の場合、単純で非常識な問答を繰り返すことに気づいた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180824)。こちらの提出書類を見て、人の生活の覗き見をするかのような失礼な問いが、こちらを苛立たせるのである。
結局、自分の生活や人生観の反映なのだ。自分の夫婦関係が破綻しているから、こちらにも「住民票だけでは、本当に同居しているかどうかはわかりません」「夫婦だからといって、一緒に住んでいるとは限りません」等と抜かす。
確かに、単身赴任や事実婚や見せかけ仮面夫婦等の事例もあるだろう。但し、それは非主流の少数派だと考えなければ、世の中の会話が歪む。普通は、雰囲気や会話の端々でわかるものだ。紙の証明等、本来ならば不要である。

民法第752条
(同居、協力及び扶助の義務)
第752条
夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

真面目に暮らしている人に失礼な問いをするな!
「多様化に対応する」「一人一人を大切にする」「個人情報の保護」というお題目の下、エンドレスに問題が膨れ上がっている。
また、かつては家の購入が社会的信用度を測る物差しだったとはいえ、このご時世なので、家族形態によっては、住み替えも考慮のうちである。住居が持ち家か賃貸かよりも、実際の貯蓄額やクレジットカードの履歴や職歴の方が、生活力の最も確かな指標となる。
ところが、「え?家を売るのではないんですか?」等と余計な質問をすることによって、その人の考えが浅いことを露呈している。
大阪府と隣の県とでは、行政の対応は違いますが、知っていますか」「引っ越す前に、まずは保健所の場所の確認をお願いします」とも、昨日は言われた。
まるで私が義務教育を終えていないかのような扱いだと感じた。
そのことについては、役場の担当課でずっと前に聞いていたし、先日の電話でも、こちらから保健所の担当係に名前を名乗って説明したばかりだった。
親切さを装って、くどくどと時間を掛けて同じことを繰り返すな!時間の無駄である。
また、「転居するなら、もう住民票を移してありますよね?こちらでは対応できません」と言ってのける。住民票がここにあるから、ここの管轄に来て書類を提出しているのに、何を言っているのか?
住所変更の手続きについては、とっくに郵便局の書面で提出済みである。なのに、「こちらで何か問題が見つかって、文書を郵送にするなら、住所がわからないと対応できません」という。
一事が万事、この有様である。
これは、単に就労人口の問題だけではなく、平成に入ってからの学校教育とマス・メディアの政策の失敗でもある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180828)。女性が外で「活躍」することによる、家庭教育の不備もある。家族の協力と調和よりも、「個」の重視による自我尊大の風潮も与っている。
活字が大きくなり、平仮名表記が増え、学校教科書が薄くなり、授業時間数が小学校から高校まで徐々に減り続け、大学の入試選抜もゼロに近づき、大学の一般教養も消滅し、「本人の意志を尊重」する「褒めて育てよ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180825)「楽しく過ごす」教育の成れの果てが、この有様なのである。
この結果、効率が著しく落ち、生産性が低下し、国力が鈍化して下がっていくばかりなのである。今やまるで社会主義国さながらである。
予期不安から、精神を病む若い人々が増加していく。高齢化社会に伴って、(どういう試算なのか根拠が不明だが)認知症患者も増加の予測が無責任に喧伝されている。
今後の社会が恐ろしい。
とにかく、行政文書を見ていても「権利」「契約」「法」の言葉がうるさくてかなわない。
「権利」には「義務」と「責任」が伴うことを、是非とも併記したい。
また、行政サービスと波打って、「補助金が受けられます」「サービスを受けることができます」「結構、お金が国からもらえるんですよ」と安易に書き換えるな、と言いたい。
昔は、「福祉の世話になるなんて、誇りが許さない」というのが、普通の感覚だった。だから、私の主人等も、診断が下った当初は「全部、自力で払ってみせる」と息巻いていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070808)。
それが、どれほど私のQOLを下げるかにも気づかず、である。
そんな経験を経て今があるので、福祉制度の恩恵と同時に、表に出てこない医師や保健師や事務職を含めた人々の妬みや憤りのような感覚にも、私だって充分に気づいてはいる。
災害、環境、介護、福祉の分野は、「資格を取れば、これからの時代のニーズに合う」ため「女性が働き続けられる」らしい。昨日、たまたま入ったレストランで、そんなことを大きな声で喋っていた40歳前後ぐらいの女性二人が、隣のテーブルにいた。
かと思えば、「弱者に寄り添う」福祉事業だと(偏って)教育された若い世代が、実際に患者や患者の家族に向き合うようになると、突然、世の中の現実に直面することになり、狼狽する。
事実を述べているだけなのに、まるで患者の方が格段に保護された暮らしをしているかのような錯覚を起こす。昨日も、話が終わった途端、目を丸くして呆然としていた若い女性の保健師さんがいた。
だが、夫が難病になったからといって、なぜ私まで病人扱いされなければならないのか?
また、私自身は年に二度の献血を継続しているのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B8%A5%B7%EC)、なぜ表面だけ見て、「お宅は奥さんが家にいるから」と軽く扱われなければならないのか?
学位論文は30歳前後で完了しているはずだったのに、ここまで延び延びになっているのは、一体、誰の責任なのか?
若年性の進行難病の患者と共に暮らしつつ、従前の暮らしのレベルを維持することが、如何に困難で、苦労や人知れぬ工夫を伴うことか。それに、収入が一定以上あれば闘病生活が楽だという保証は、どこにもない。むしろ、難病なのに一定のお給料をいただいている分、人並み以上の働きを示さなければならない。職場での長年の心労は、筆舌に尽くし難いものがある。
第一、収入があってもなくても、難病は難病。苦労は同じである。いや、発病前の生活水準によって、同じ患者であっても暮らし方の違いが発生するのは、いわばやむを得ないのである。
それなのに、「格差をなくせ!」「格差是正!」「差別反対!」と声高に叫ぶので、本当に奇妙なことになっている。
まるで他者への想像力が欠如したまま、目の前の膨れ上がる事務業務を、生活のためとか言いながら、非正規雇用者や契約社員機械的にこなし続けているので、大学病院でも保健所でも、より一層トラブルが激増するのである。