ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アゴラ記事から二本抜粋

http://agora-web.jp/archives/2034558.html


「パチンコ産業にはなぜ在日資本が多いのか、という話」
宇佐美 典也
2018年9月4日


・正確な統計はありませんが、一般にパチンコホールの7〜8割が在日資本
・平和、三洋、ニューギン、豊丸産業など在日資本が多数あり、パチンコ業界は「在日の産業」といっても過言ではない状態
・パチンコ産業の起こりはどうやら大正時代末期に兵庫県宝塚の温泉に、アメリカ製の「ウォールマシン」と呼ばれるボールゲームが導入されたことに端を発している
・その後この機械は随時日本人向けに改良されることになり、1936年には名古屋在住の藤井正一氏が現在の鉄球で遊ぶパチンコの原型を完成させた
・太平洋戦争が迫ってくると「不要不急の産業」とされ、各地の遊技場は強制的に廃業
・少しづつパチンコは庶民の遊びとして復活
・1948年になると「現代パチンコの父」とも呼ばれる正村竹一氏がいわゆる「正村ゲージ」を開発し、パチンコの大ブーム
・正村も藤井と同じ名古屋人で、名古屋という街はパチンコの歴史において非常に重要な役割
・1949年当時に4818件しかなかったパチンコホールは1953年には43,452件と10倍近くにまで増えます。パチンコホールは参入障壁が低く、遊技機を買い揃えればすぐに参入ができたため日本全国で参入企業が殺到し、このころは特にパチンコ産業で在日資本比率が高いという特徴はありませんでした。
・1953年に警察が「ギャンブル性を高めすぎる」と連発方式のパチンコを禁じると、パチンコブームは去り、一気に市場が冷え込みます。この落ち込みはブームと同じくらい急速で4万軒を超えるまで増えたパチンコホールは1957年には8792軒にまで減少します。
・日本人のホールオーナーの多くは他産業へと業種転換しましたが、当時人種差別が根強かった日本では在日韓国人在日朝鮮人の職業選択の余地は乏しく、彼らの多くは経営が苦しい中でもパチンコホールを続けざるを得ませんでした。当時在日の人々の職業選択は事実上、パチンコ、ホルモン屋、性風俗業界、程度に限られていたようです。
・戦後のパチンコブーム時の業界への大量参入と、その終焉後の市場の冷え込みによる日本人ホールオーナーの退出によって、パチンコホールの在日資本比率は大幅に高まることになりました。この後在日コミュニティは経営が苦しい中でも、民族団体等を通じてパチンコホールの経営ノウハウを蓄積・共有して生産性を高め、またメーカーや周辺機器市場に進出していくことで、パチンコ産業はいわゆる「在日産業」としての性格を有するようになります。
・端的に言えば「戦後のパチンコブームと日本人の人種差別と在日社会の努力の結果」というところになるでしょうか。

(部分抜粋引用終)

http://agora-web.jp/archives/2034552.html


「日本人の立場からは中国史をこう捉えるべきだ」
八幡 和郎
2018年9月3日


・『中国と日本がわかる最強の中国史』 (扶桑社新書) という本を出した。
・かつての日本人は、中国をみるのにしばしばコリアンの見方に影響されてきた。直接の交流のほかに、半島を通じた文物の輸入があり、儒学者などの来日も多かったので、中国の従属国家であった半島国家の見方がかなり日本人に伝染してしまっていると思う。日本は従属国家であったことはないので、違う歴史観で動いてきたし、そのことを再認識すべきだと思う。
冊封関係というものが東アジアの基本的な外交秩序だったというのは西島西嶋定生(ママ)という東京大学教授が戦後になって唱えた学説にしたがったもので、中国でも存在しないガラパゴス史観である。そういう認識が時代的にも、地域的にも共通して存在したわけでない。
・水田耕作技術は中国江南地方のものが日本にもたらされたのであって、朝鮮半島は沿岸を通過したか、あるいは、短期間、経由しただけである。東北地方と同じような気候の半島で米作りが九州より先に普及するはずがない。
帰化人の由来を調べると、ほとんどが、漢族である。とくに、文化や技術を日本に伝えた、秦氏、止利仏師、王仁博士などいずれも百済に一時期住んでいたにしてもすべて漢族だ。百済人などは亡命者が主体である。
・漢の時代や唐の栄華は中国にしのぶべきものは残っていないし、漢字の読みかた、着物のスタイル、義理人情などいずれも古代中国の文明の粋は日本にこそ残っている。
・中国人は元寇で侵略に失敗し、倭寇にさんざんやられたので、日本人を屈服させようとしても無理だと考えている。だからこそ、日本国内の媚中派を手なずけて、日本人から牙を抜こうとしている。
文禄・慶長の役で日本は負けていない。ただ、秀吉が死んで内戦になったので勝利のチャンスを失っただけ。ただし、朝鮮に丙を移動した隙に満州族が勃興して明は滅びた。
・沖縄の人は平安時代以降の南九州からの移住者が主体であるし、江戸時代も薩摩藩73万石の内数に入っていた。
孫文は自分がいきのびるためなら何でもいったししたので、本心など存在しない。
・抗日戦争から逃げて生き延びた中国共産党
・「一帯一路」は「大東亜共栄圏」の焼き直し
・西太平洋は自分のものだとアメリカにいって日本はやられた。習近平は同じことをしたがっているが、やめたほうがよい。
習近平は安倍首相との外交戦争に負けた
・同じ6年前に権力についた2人だが。習近平は欲張りすぎて、いまや、アメリカとの貿易戦争や、ヨーロッパでの警戒感の高まりで絶体絶命だ。

(部分抜粋引用終)