ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

憲法について考える

著者については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180427)を。

萬晩報(http://yorozubp.com/
「高知と国憲 2015年2月6日夜学会」


2018年5月3日(金)
萬晩報主宰 伴武澄


・今日は憲法記念日日本国憲法が1947年5月3日に施行されたことを記念して翌年から祝日となった。建国記念日はどこの国にもあるが、憲法施行の日を祝日としている日があるのか考えた。祝日となった経緯は戦争放棄」を世界で初めてうたった憲法を制定したことを国民として喜ぼうという思いがあったはずである憲法が改正されて、国軍として自衛隊が認められれば、普通の国となるので、世界に胸を張る憲法ではなくなる。そうなれば、たぶん憲法記念日も廃止する必要があるのではないか。そんな問題意識である。


・小生は2015年1月からほぼ毎週、はりまや橋夜学会を開催し、民主主義を根底から考え直そうと訴えている。3年前の2月6日、「高知と国憲」というテーマで講演した。


・記者になるとまず最初に刑事訴訟法を知らなければ仕事にならないことを知った。まず警察が容疑者を「逮捕」するとな何か、そして警察が検察に「送致」する。さらに検察が裁判所に「起訴」する。そんな基礎的用語から学ばなければならない。


・不思議なもので3カ月もすると警察官の話していることがすんなりと入ってくる。実務が大切だということだ。


この15年ぐらい、憲法とは何なのか考え、自ら勉強するようになった。もともとは改憲論者だったが、学んでいるうちに出会ったのが『法窓夜話』という本だった。東大の初代の法学部長になった穂積陳重が書いていた。メソポタミアハムラビ法典から始まって、ギリシヤの法律、中世の日本の武家諸法度まで網羅してあってやさしく法律の意味を学ぶことが出来る。


明治初期に「憲法」という表現はなかったと言っている17条の憲法はあったじゃないかというかもしれないが、近世以降の概念としての憲法はなかった福沢諭吉は英語で言うConstitutionのことを律令と書いていた。国法、国制、国体、朝網など人によって違う訳語をあてていた。一番多く使われていたのが「国憲」という訳語だった。だから植木枝盛憲法草案は「大日本国国憲按」と題した。条文の仮名では憲法という表現を使っているが、タイトルはあくまで「国憲」だった。


・これは非常に重要なことで、僕たちがなにげなく使っている憲法という訳語は、明治初期には人口に膾炙されていなかった。


憲法が正式に決まったのは、伊藤博文プロシアオーストリア憲法を学びに行った時に「憲法取調」という役職をつけてからのことだった。大日本国憲法制定の5年前のこと。


・穂積氏の本によれば、東大法学部で授業が日本語になったのは明治20年のこと。それまでは政治も経済も、自然科学も英語で教えていた。


・「政治」も「共和」「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。


・明治日本は数多くの訳語をつくった。共和とか自由とか、もちろん政治や経済もそうだ。2000近い和製漢語が生まれた時代だった。多くは中国の古典から探し出した表現に近世的な意味を与えた


・江戸時代の高知のことを学んだが、古い地図に鏡川のことを潮江川と書いてある。そういえば四万十川となるのは1990年代のことだ。それまでは渡川といっていたそうだ。NHKの放映によって、昔から四万十川と呼ばれていたようになっている。長宗我部家のことを書いた『土佐物語』には四万十と書いてあるそうなので、川の名前にも変遷があるということなのだ。


安芸市の民俗資料館で発見したが、もともと安芸は「安喜」だった。長宗我部元親安芸国虎を破った時に「安らけく喜ぶ」としたのが、明治時代になって元に戻した。地図を見るまで誰も知らないというのはよろしくない。


・我々が常識と思っている多くの事象は実はあやとない事実の上に構築されているかもしれないということである。


・さて憲法である。近世に初めて憲法が生まれたのはアメリカ合衆国だった。イギリスの植民地だった13州がイギリス国王に反旗を翻した。13州それぞれ総督がいて統治していたが、インド人を統治したのがインド総督だったのに対して、アメリカでは総督はイギリス人を統治していた。例えば薩長連合軍が徳川に反旗を翻して西日本国を樹立するようなものだ。だから、アメリカの独立はインドの独立やベトナムの独立と決定的に意味が違う。


・結果的に13州が勝利するが、その背景に13州を応援したヨーロッパの国々があったからだ。アメリカ独立戦争時のフランスの統治者はルイ王朝だったから、応援したのはフランス市民ではなく、王様だったことを覚えておいて欲しい。自由を求めた13州を支援したのだからおかしな話に聞こえるが、アメリカ独立戦争は実は英仏戦争だったのである。


・13州の兵隊は民兵で正式な軍隊ではなかった。その民兵たちの頭領がジョージ・ワシントンだった。独立宣言は1776年。その後、合衆国憲法が生まれるのが1789年。13年にわたり13州の人々はこの(ママ)をどうするか議論を続けた。


・イギリスとの戦いに勝利したワシントンは側近たちに「閣下、一刻も早く即位を」と王様になることを求めた。当然であろう。当時、地球上に民主主義などはなかった。だが、ワシントンは拒絶した。13州の人々は王様を戴かない国家をつくることにした。合衆国憲法はそんな13州の約束事を文章にまとめたものだった。Consitituteは構成するといった意味合いである。主権者はもちろん人民(peaple)であるが、最高権力者をPresidentと命名した。プレジデントは聖職者や企業の代表にもつける呼称だったが、政治権力者に命名したのは13州の人々で、いわば大統領が彼らが発明者たちだった。


・Constitutionやpresidentをどう日本語で表現するか悩んだのが100年後の明治の人たちなのである。


・明治22年に大日本国憲法が誕生するのだが、僕が一番注目したのは99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書いてあることである。矛盾していると思わないか。憲法を尊重するなら国会議員が憲法改正を口にできなくなる。


・僕が習った憲法基本的人権主権在民戦争放棄の三つの柱で構成されていた。基本的人権主権在民は合衆国憲法やフランス憲法には載っているが、明治憲法にはない。明治憲法は欽定憲法といって天皇が決めたものだった。だから臣民はこれを守らなければならないという代物だった。


・いま安倍首相が「国民には権利と義務があるが、憲法には権利ばかりが書いてあって義務が書いていない」と改正憲法に国民の義務を多く盛り込む姿勢を示しているが、明治憲法の第99条にあるように、公務員が暴走しないように箍を嵌めるのが憲法なのだ。安倍首相は憲法制定の主旨をまったく理解していないとしかいえない。法律は国民に箍を嵌めるものだが、憲法はベクトルが逆なのだ。法律は上から目線であるのに対して、憲法の建前はしたから目線なのだ。冒頭にConstitutionの日本語訳について長々と説明した意味は全くここにある。


憲法改正に国民の意思が表明される国民投票が必要なわけもここにある。合衆国憲法の改正は国民投票でなく、州議会の議決が必要となっている点、日本と大いに違う。


・各国の憲法には必ず修正条項があり、日本の場合、国会議員の3分の2の議決を受けた上で国民投票過半数を必要としている。フランス憲法で面白いのは絶対に修正できない条項がある。人民主権という条項で絶対に王政に戻せない仕組みになっている


・戦後の日本国憲法にはいくつか決定的矛盾がある。まず第一条に天皇は国の象徴であるとあるが、主権在民憲法の第一条が天皇というところに大きな矛盾がある。国家の構成を規定するのが憲法だとすると順番が違う。ついで、前文に「国民はこの憲法を確定する」とあるが、われわれは国民投票を経験したことがない。ともに明治憲法の改正条項を基に日本国憲法がつくられたため、大きな矛盾を残すこととなっている。明治憲法73条は「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とある。そして第2項に、3分の2以上の出席を得て、3分の2以上の多数を得なければ改正できないと書かれてある。国民投票の条項がないから、新しくできた民主憲法といっても一度も国民の信託を得ていないのである。問題はここらが議論されたことが一度もないことである。


・改正の手続きに瑕疵はないが、どうもしっくりいかない。だから僕の憲法論は「廃止」なのだ。


・ところで、日本では総選挙後、特別国会を召集して、次期首班を指名することが憲法で定められている。国民が選んだ衆院議員の仲から首相を選出するのである。


・同じ民主主義国家といえどもそれぞれにやり方が違うことを知っておく必要があろう。アメリカには国王はいないが、大統領選挙後、相手が「負けました」と敗北宣言をしたで(ママ)、大統領就任が決まる。


アメリカが合衆国憲法をつくってから、多くの国がアメリカに倣って憲法を制定した。ドイツはプロシアを中心とした連邦国をつくった。日本だって考えてみれば、江戸時代は徳川を中心とした連邦国家だった。ただ徳川が強すぎたから、諸国は徳川に従わざるを得なかった。幕府が倒れて、薩長土肥が連邦を形成していれば違う形の国家が生まれていたかもしれないが、薩長天皇を中心とした国家をつくろうとして、そうなった。植木枝盛が国憲按で連邦制を唱えたのは、そのころまだその可能性が残されていたと考えられなくもない


アメリカは13州で建国したが、建国した団体をコングレスといった。今も上院のことをコングレスという。今も昔もコングレスは州一人を選出する。2年ごとに選ぶから、50州で100人の上院議員がいるが、一票の格差は日本の比ではない。ここにアメリカの民主主義の原点があるのだ。

(部分抜粋無断転載終)
白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫(平成18年)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180417)から抜粋を。

再軍備の問題で大分話した。終戦後六、七年間小学校の子供にまで軍備を持つことは罪悪だと教えこんだ今日、無防備でいることは自殺行為だなんていったって誰も納得しない。これは占領中の政策にも責任が無いとはいえない。人間の癖でも六、七年かかってついた癖は、そう一年や二年でぬけるものではない。(p.49)(1952年)

再軍備に端を発した憲法改正である。この新憲法なるものの原案は確な筋によると、終戦以前に於て既に米国側で占領中総司令部民政局で、色々と話題をまいたケーディス氏一派によって起草されていたものらしい。言葉を換えれば、これは米語翻訳憲法であることは周知の事実である。(p.79)
・まさかと思う人は米文の憲法原案の前文を見て御覧なさい。日本人が日本の憲法の前文で「我々日本人は云々」とやり始めるでしょうか。外国人が日本人の立場に於て書こうとしたことによって、思わず「我々日本人」と始めたに違いないし、又そう始めることは無理でもない。(p.79)
・私はこの日本の議会制度を米国式の議会構成の立場から判断して、こういう結論を出した民政局の人間の無智と幼稚さを笑ったと同時に、こんな根本の問題に就て、利己御都合主義のために、こんな結論を金科玉条の御宣託の如くに振り廻した、一部政治家の不甲斐なさ、無節操に憤慨した。(pp.81-82)
・今の憲法の様にゴタゴタクドクドしていなくて、なるべく簡単なものを(昔の教育勅語じゃないが、中学生なら大体暗記して知っていられる程度の短さと字句の容易さ)。(p.82)
憲法改正の焦点は再軍備の問題になると思う。現在の憲法の「戦争抛棄」の条項も、又連合国側というか、米国側の発明である。(p.84)
・一、新憲法制定当時の米国の対ソの見通しは、日本に関する限り間違っていたこと
二、共産陣営の内外よりする侵略の可能性が、日々増大しつつあること。
三、日本が自衛能力を持つまでは、米軍が駐屯せざるを得ないこと。
四、外国軍隊が自国に駐屯することは、愉快なことでないから、自分の国の軍隊の方が外国の軍隊よりもいくらかましなこと。(p.85)
再軍備問題は、何か米国の御都合主義の御先棒をかつがされるのではないだろうかという危惧を国民は抱いているのではないだろうか。(p.85)(1952年)

・男女同権ということで始終不思議に思うことがある。敗戦後占領軍の圧力で新憲法を押付けられたついでに、沢山の皇族が整理されて、親王家だけが皇族として残ることになった。親王は一生親王であるに拘わらず、内親王は結婚すると○○夫人となり下り、ただの平民となる様だが、これは男女同権ではない様だ。(p.116)
・私は自分の子孫に日本憲法は「強制的のおくりもの」(ママ)だと言い伝えたくはない。敗戦の真相も伝えたい。「おくりもの憲法」の由来も話したい。然し、ほんとの我々のつくった憲法のことも話してみたい。(p.120)(1953年)

・占領が始まった当時は連合国側の意図は、日本が侵略戦争を再びくりかえす可能性を徹底的に根絶して、永遠の平和国家即ち完全無力国家建設ということにあったことには間違いない。(p.163)
・この憲法の草案なるものは日本の占領が始まる余程以前から準備されていたという事実を私は信じる。(p.165)(1954年)

・米国も我国に、我国の憲法を押しつけた気持の上の弱みはあると思う。(p.224)
・新憲法の原案は米軍が進駐以前、オーストラリアあたりに司令部があった時分にすでにその草案があったような気がしてならない。日本側からおそるおそる提出した憲法改正案には目もくれず、彼らの手になった新憲法案を日本政府に強圧したことは間違いのない事実である。(p.225)
・主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何と言うのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法が出来上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。(pp.225-226
・しかし米国民のうち何パーセントがこの押しつけの事実を知っているだろうか。(p.226)(1969年)

・わが国の真珠湾の不意打ちが、わが国の歴史の恥辱の一ページであったのなら、この戦争裁判なる化物は戦勝国たる連合軍、ことさらにその主導的立場にあったアメリカ史上最大の汚点であったと思う。(中略)有名なタフト氏は、この裁判の不正義性を強調し、これは勝者の敗者に対する復讐心以外の何ものでもないと断定した。(p.237)
・鳩山氏追放の大きな原因の一つはGHQ民政局にはびこっていた、ニュー・ディールかぶれというか保守嫌いというか、社会主義一辺倒というような連中の策謀であったといえる。(p.242)(1969年)

(部分抜粋引用終)

上記の問題については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B6%E5%BE%F2)を参照のこと。

2018年5月7日追記
「明治初期に「憲法」という表現はなかったと言っている。17条の憲法はあったじゃないかというかもしれないが、近世以降の概念としての憲法はなかった。」と上記の伴武澄氏が書いていらっしゃるが、本日、引用された本が届いた。

穂積陳重『法窓夜話』岩波文庫(青147‐1)(1980年/1982年 第5刷)

その中の「五〇 憲法」には、以下のようにある。

憲法という語は昔から広く用いられており(『続法窓夜話』二話参照)、往々諸書にも見えているが、就中聖徳太子の『十七条憲法』は最も名高いものである。しかし近年に至るまでは、現今のように国家の根本法という意義には用いられておらなかった。」(p.176)

(抜粋終)

「十七条憲法」については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180330)を。