ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

埋もれた国史を学び直す

以下三件、メーリングリストより。

渡部昇一忘れてはならない日本の偉人たち


<第一章 国のかたちを守る>


皇室最大の危機を救った和気清麻呂
藤原道長はなぜ天皇にならなかったのか
忠孝精神の源・楠木正成
吉田松陰を松陰たらしめたもの


<第二章 日本文化の広がり>


日本文学に偉大な足跡を残した太安万侶
日本刀の価値を転換させた正宗
いま見直したい伊藤仁斎・東涯の思想
金次郎を大成させた父・利右衛門の存在


<第三章 改革への気概>


窮乏の藩を救った上杉鷹山の手腕と発想
橋本左内の稚心を去る覚悟に倣う
渋沢栄一の公的精神に学ぶ
顕彰すべき木越安綱の偉業


<第四章 日本の名将たち>


純真無垢な武人・乃木希典
日本陸軍の良心」と呼ばれた宮崎繁三郎
死ぬまで部下のために生きた「聖将」今村均
ペリリューを戦い抜いた中川州男の気魄
北海道をソ連侵攻から守った池田末男


<第五章 胆力と行動力>


勝海舟、その捨て身の人生
東郷平八郎の肝っ玉に学べ
潜水艇艇長・佐久間勉の「沈勇」
いまこそ岸信介の見識と実行力に学ぶ時

(転載終)

江崎道朗氏に関する過去ブログは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180323)を参照のこと。

江崎道朗『コミンテルンルーズベルトの時限爆弾』(その1)


・国際的な情報戦を勝ち抜くために。


・いわゆる反日国家というのは中国共産党と韓国、北朝鮮のわずか三か国に過ぎず、日本は決して「孤立」などしていない。


・世界には二百近くの国家が存在しているが、首相の靖国神社参拝に反対しているのも、中国と韓国だけである。


岸信介首相や福田赳夫首相の民間スタッフとしてアジア外交を担当した中島慎三郎先生。


・戦後日本が経済発展を遂げることができた背景に、大東亜戦争を評価するアジアの指導者たちの支援があった。


アメリカの保守系シンクタンクや草の根保守、そして米軍関係者と付き合う中で、ソ連中国共産党に対して警戒心を持ち、戦前から「強い日本」を支持するグループがアメリカに存在したことに気付くことができた。


・せっかく日本の立場を支持する親日国際ネットワークがあるのだから、それを活用しながら日本の国益と名誉を守る外交を展開していくべきである。


・冷戦終結を受けて旧ソ連コミンテルン文書やアメリカの機密文書が次々に公開されるようになったことに伴い、アメリカでは今、保守主義者たちの手によって、第二次世界大戦に到る歴史の見直しが進んでいる

(部分抜粋引用終)

江崎道朗『コミンテルンルーズベルトの時限爆弾』(その2)


・マレーシアのガザリー元外相は、「マレーシアが独立して間もない頃、マラッカ海峡を通るタンカーに通行税を取ろうという話が出たことがあったが、そうすると日本の貿易に打撃を与えるので、この話は立ち消えとなった」と指摘する。


・ガザリー元外相は戦時中、日本軍が開設した興亜訓練所で学んでおり、大東亜戦争の理想に共鳴していたのだ。


大東亜戦争遺産によって支えられた戦後日本


大東亜戦争の理想に共鳴したアジア各国の指導者たちによって日本は過酷な戦後補償から逃れることができたばかりでなく、東南アジア市場への進出を支援され、今日の経済発展の基礎を築くことができた。


大東亜戦争精神的遺産に、わが国は支えられてきたのだ


靖国参拝に反対している国は、わずか2カ国


・一国が独立国といえるためには、3つの自由。
第一は、自国の防人をもって自国を守ること
第二は、自ら教育したいように自ら子弟を教育するということ
第三は、自ら祀りたいように自分たちの神々を祀るということ


自衛軍を持つための憲法9条改正と、国を愛する心を謳った教育基本法の改正、そして首相の靖国神社参拝の3つは、戦後奪われた我が国の基本的自由を取り戻し、まともな独立国家となるために絶対に必要な決断だ。


・アセアン結成を支えた民間外交官、中島慎三郎。大東亜戦争の理想を忘れず、民間人でありながら、福田赳夫首相らのブレーンとして対アジア外交を担い、インドネシア共産化を阻止した人物が日本にいることを知ったのは、1991年の夏のことだった。


海部首相が1991年にアセアン諸国を歴訪し、先の大戦について謝罪したことについてどのように受け止めるべきか、名越教授と話をしていたところ、「アセアンのことならば、インドネシアに戦後200回以上訪問したことがある中島慎三郎というおもしろい人物がいるから紹介しよう」といって、連れて行ってくれたのが新橋にあった「インドネシア・センター」という事務所だった。


・その事務所は「インドネシア・ラヤ」というインドネシア料理店があるビルの地下にあった。「インドネシア・センター代表」という肩書を記した名刺を
差し出しながら中島さんは開口一番、「何でも質問していいよ」とおっしゃった。

(部分抜粋引用終)