ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

明治維新150周年

加瀬英明氏の引用を再び(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=kase-hideaki)。

http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi


明治維新150周年に当たって想う」
2018/01/31


・今年は明治維新から150年になることから、政府が「明治維新150周年」を祝うことになっている。
・今日では明治維新が行われたからこそ、日本が貪欲な西洋列強の餌食になることなく、独立を全うして近代国家として発展することができたことに、異論を唱える者はいまい
・50年前の日本では、政府はもちろん、民間にも維新100周年を祝う気運がまったくなかった。100周年を話題にすることもなかった。日本は朦朧としていた。
昭和43年には、日本が国民総生産(GNP)でアメリカに次ぐ、世界第2位の経済大国になったというのに、6月に東大医学部学生が東大安田講堂を占拠して、機動隊が出動し(翌年、大規模な安田講堂占拠事件が発生)、10月に学生が新宿駅を占拠し、11月に4000人以上の学生が安保粉砕を叫んで、首相官邸に乱入した。大学紛争が全国の115校の大学に波及した。
・大手新聞が、2年後に迫った日米安保条約改定へ向けて、60年安保騒動が再現されることを期待して、「70年危機」を煽っていた
・この年にはすでに敗戦からほぼ半世紀、独立を回復してから15年もたっていたのに、アメリカによる占領によって蒙った深い傷から、立ち直ることができなかった。国家意識を喪失してしまっていたために、国民が明治維新が紡いだ輝かしい歴史を、思い遣ることができなかった。
・世界史を振り返ると、このように国家が記憶を喪失する症状を患った例は、日本の他にない
・日本国民は敗戦から今日まで、人であれば正常な人間関係――国家として正常な国際関係を結ぶことが困難な自閉症を、病むようになっている。
日本国憲法は大多数の日本国民によって、「平和憲法」と呼ばれて親しまれてきたが、先の戦争後の日本の平和は、アメリカの軍事力によって守られてきた。この憲法アメリカの保護なしに、成り立たない。「“アメリカの力による平和”憲法」と、呼ぶべきである。
・昨年11月に、都内の名門私立大学の国士舘大学において、建学100周年を記念して「『東京裁判』シンポジウム」が催された櫻井よしこ氏、西修駒澤大学名誉教授、高橋史朗明星大学特別教授と、私が招かれて討論が行われた。
東京裁判と、もう1つの占領政策の柱だった「ウォア・ギルト・インフォメーション・プログラム」が、日本国民の精神をいかに歪めてきたか、追及した。東京裁判国際法を、無惨に踏み躙ったものだった。占領軍が行った言論統制と、「ウォア・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、言論の自由を約束したポツダム宣言に、大きく違反するものだった。
・司会をつとめた国士舘大学法学部のS教授に、「1つお伺いしたいことがある」と前置きして、「28年後に先の戦争が終わってから、100周年になりますが、アメリカが行った東京裁判と『ウォア・ギルト・インフォメーション・プログラム』によって、日本が惨めな状況に置かれているというシンポジウムを、また行うことになるでしようか?」と、質問した。
東京裁判は無法な復讐劇だったし、アメリカの占領政策は復讐心と、当時のアメリカを支配していた白人優位信仰に基く傲りから、日本が野蛮国だときめつけた偏見が生んだものだった。そこで、独立を回復してから15年か、20年以内に、アメリカが占領下で行ったことが蛮行であったと総括して、アメリカを赦すかたわら、日本が独立国として誇りを取り戻すべきだった。
・私は日本が独り立ちできない咎を、いまだにアメリカの占領政策に負わせるのは、異常なことだと思う。これでは、韓国が72年も前に終わった「日帝時代」について、日本をいまだに執拗に非難しているのと、変わらないのではないか。このために、韓国は自立できないでいる。
・過去に遡って、東京裁判と「ウォア・ギルト・インフォメーション・プログラム」を検証することは、近現代史研究の一環として有意義なことであることは、いうまでもない。だが、東京裁判をはじめとする、アメリカの対日占領政策は、学問的な研究の対象にとどめるべきだ。独立国は自立していなければならない
・戦後70年以上もわたって、東京裁判と「ウォア・ギルト・インフォメーション・プログラム」を、日本を病ませている大きな要因として取り上げるより、なぜ、日本がいまだに対日占領から立ち直ることができないのか、いったい日本の民族性のどこに、脆弱なところがあるのか、考えたい。
・今後、日本が有力な独立国として、さらに世界にどのように貢献できるものか、考えるべきであろう。

(部分抜粋引用終)