ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

明治の英傑

加瀬英明氏の過去引用ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=kase-hideaki)。

http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi


「明治を創った英傑に、国を想う心を学ぼう」
2018/12/4


・今年は、明治維新150周年に当たるが、『日本の偉人物語 伊能忠敬 西郷隆盛 小村寿太郎』(光明思想社)という、幕末から日本を創った3人を取りあげた、良書が出版された。各家庭に1冊、常備したい本だ。


伊能忠敬(1745年〜1818年)は農家の子で、和算(数学)、天文学、測量を学び、55歳から17年かけて全国の沿岸を測量して、精密な日本全図をのこした。


・今年は、忠敬の没200年に当たる。私は忠敬の次女しのが、千葉の銚子の隣の旭村(現旭日市)の農民・加瀬佐兵衛に嫁いだことから、忠敬の孫の孫の子である玄孫に当たる。


・この春に、忠敬の没200年を記念して、都内のホールにおいて、忠敬の測量に協力した人々の子孫が70数人上京して、私たち忠敬の子孫から、感謝状を贈る式典が催された。


・忠敬は日本の近海を脅かすようになっていた、西洋諸国から日本を守るために、精密な沿岸図をつくるのに、余世を捧げた。私の父方の祖父は、私の生前に他界した。祖母のか津は、忠敬が養子となって酒造りをしていた佐原の庄屋の近くの、醤油造り家の娘だったが、私に忠敬の国を想う心を伝えた。


・忠敬の直弟子であった間宮林蔵も、烈々たる愛国者だった。忠敬の没後に、北方の千島列島と樺太の測量を行ない、幕末の安政2(1855)年に結ばれた露和新条約によって、国後、択捉、歯舞、色丹の北方四島を、日本領として認めさせた。


・今日でも、樺太とシベリアの間の海峡が、間宮海峡と呼ばれるが、林蔵の業蹟である。日ロ間で明治5(1875)年に、千島樺太交換条約が結ばれ、千島列島がすべて日本領となったが、林蔵の力によるものである。


西郷隆盛は、私の母方の郷里の鹿児島が生んだ、明治維新の英雄だ。西郷の大活躍はよく知られているが、西郷の右腕として尽力したのが、山岡鉄舟だった。鉄舟なしには、西郷と勝海舟による江戸無血開城はなかった


・鉄舟は旗本の五男で、剣道の達人だったが、生涯、無私無欲で、日本の行く末だけをひたすら想った。西郷に鉄舟を評して、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような、始末に困まる人です」といわせている。西郷だからこそ、鉄舟を見込むことができたのだった。


小村寿太郎(1855年〜1911年)は、今日の宮崎県にあった、飫肥藩(おびはん)の藩士の子として生まれた、明治を代表する外交官である。


・寿太郎は小柄だったが、日本男子の気魄にみちていた。寿太郎が育った、日南市にある『小村寿太郎記念館』に、寿太郎が日露戦争講和条約であるポーツマス条約を調印した時に着た、フロックコートが展示されているが、七五三の少年の衣装のように小さい


・私の自宅の近くに『振徳館』という、飫肥藩の藩校の名をとった、武道の道場があるが、毎年、新年の道場開きに招かれて、乾杯の発声を行うことになっている。居合、警視庁師範による逮捕術、陸上自衛隊員による銃剣術、空手道の演武などが、繰り広げられる。


・日本が明治維新という、世界の奇蹟を行うことができたのは、国民が国を想う燃えるような心と、武を磨いたからだった。


日本国憲法は前文から、自虐精神によって始まっており、日本が自立することを否定している。幕末から明治にかけた先人たちが、この憲法を読んだら、いったい、どう思うだろうか。

(部分抜粋引用終)