ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

三代続けて「キャンパスの恋」

眞子内親王の父娘ハンガリー旅行や来月3日の婚約発表(予定)等(ユーリ後注:9月3日は連合国の中華民国ソビエト社会主義共和国連邦対日戦勝記念日)、気の抜けるニュースばかり続いている。

昨夏の「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求める」「国民の理解を得られることを、切に願っています。」という天皇陛下のお言葉もあったように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160809)、ここは一つ、国民の義務として、ニュースの把握とおさらいをしておかなければならない。
秋篠宮家についての過去ブログ一覧は、以下を。

・2017-08-20   平成になって変わったこと
・2017-08-19   「体操ニッポン」の時代
・2017-08-16   週刊誌の皇室記事からの孫引き
・2017-07-28   精神面での国防が脆弱に
・2017-07-08   利用され続ける日本
・2017-05-25   憂慮すべき事柄が山積み
・2017-05-23   共産思想とキリスト教と皇族
・2016-10-19   情緒的反戦思想
・2016-02-14   日泰倶楽部
・2008-06-19   振り返ればもうすぐ一年

(リスト終)

上がしっかりされていれば、国民も安心して自分の仕事や家庭に専念できるはずなのだが…。
ところで、私と同世代の秋篠宮ご夫妻の婚約および結婚に至る過程に関して、古い本がウェブ上で公開されている。出版された当時、(主人もそうだが)私は海外勤務中だった上、まだインターネットもなかった状態だったので、全くの初見である。
ざっと読んだところ、眞子内親王の結婚に至ろうとする現在の決心(と言ってもよいのかどうか)を巡る背景が、伏線のように既に出没していることに気付いた。
誠に勝手な理屈づけでしかないが、公の面では父方(秋篠宮殿下)の血筋に沿って、天皇家の一員である内親王として一般にメディアで情報公開されるが、私的な面では、いずれは降嫁して民間人になるのだからと、母方(紀子妃殿下)の血筋に沿って育てられてきたのではないだろうか。
一般国民は、前者を中心にして、内親王を知っているつもりになっているのが普通である。そうであるとすれば、内親王にとっては、(祖父母も両親も「キャンパスの恋」なのに、どうして国民の中から批判や苦情が出るのかわからない)という状態なのかもしれない。
何だか読んでいて笑える箇所が幾つかあるが、天皇家に関して、宮内庁発表と新聞、テレビ、ラジオ、皇室ジャーナリズムのみの当時、地方に住む我々は、このような演出に乗せられて、自己(や娘や孫娘等)の人生と比較したり擬えたりしながら、二十代、三十代を生きてきたのであろうと内省する。
そして、梨本宮伊都子妃が書かれていたように、民間からお后を娶ることによって、将来の日本に及ぼす影響と、国民統合が崩れるかもしれない真の危機は、三世代先の初孫娘のご慶事に示唆されているとも解せよう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170523)。
http://www.junpay.sakura.ne.jp/index.php/index.php?option=com_content&view=article&id=189:ldk-&catid=42:2009-01-31-14-03-27&Itemid=64
LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』(1990年6月20日 ブレーン出版)(1)

昭和天皇崩御によって訪れた平成という新時代。その新時代の最初で最大の話題の主が、川嶋紀子さんといっても過言ではないだろう。


昭和天皇の喪中期間中であるという事実も、天皇家の長男・浩宮さまのお妃選びが決定していないという事実も、お2人の愛には障害とならなかったのである。


朝日新聞のスクープで始まった“紀子さん報道大フィーバーと、その裏側


皇后さまの「宮廷革命」。お2人のご婚約は、革命が着実に実を結んだ結果だった


礼宮さまのひと目ぼれで始まったキャンパスの恋の物語。


・“結婚できないのなら皇室を離れる。紀子を連れていってイギリスで一緒に暮らす


朝日新聞平成1年8月26日、土曜日の一面トップに載った大見出しを見て、各社の皇室担当記者は仰天した。


宮内庁長官藤森昭一氏のところへ、各社から問い合わせが殺到した。しかし、返ってきた答えは「ノーコメント」


NHKは午前7時のニュースから、朝日と同じトーンで“礼宮さまご婚約”を伝えたのだった。


まさか、天皇家でそれが起ころうとは、やはり常識が邪魔をして思いつかないのだった


礼宮さまが望まれた方ならば、両陛下は結婚をお許しになると思います。川嶋さんとの結婚について、格式が不釣り合いだと、両陛下が反対されることは考えられない。


・紀子さんと父親の川嶋辰彦氏(50)が姿を見せたのは、8月28日になってからだった。


・「いずれ、その時が来ましたら、本人から……」と言うばかりだった


・きっちり角度45度のさわやかなお辞儀


新宿区の生協で買い物をすませた紀子さん


・帰りに板橋区の都立養育院老年学情報センターで本を借りる。


・会見はキャンパスの恋の成就にふさわしい雰囲気となったが……。


・正式婚約が整ってからというもの、紀子さんの笑顔はますます美しくなった


・お2人のカレーの種類は違っていて、礼宮さまがカツカレー、紀子さんはシーフードカレー。ただし、ともに980円だった。


・左手くすり指には、それまでなかったエンゲージリングが輝いていた。直径約8ミリのピンクのパールの両側に、約0.5カラットのダイヤをちりばめた指輪。


・「お見うけしたところ、とても礼宮さまのお小遣いで買えるものではないようですから」と、ある宮内庁関係者は言った


・一方、成田空港での礼宮さま。紀子さんと同じように左手くすり指に、ナマズのエンゲージリングをして、機上の人となられたのであった。


・「ナマズが指に巻きついている感じで作ってほしいんです」と、紀子さん。紀子さんは自分なりのプランをハッキリ持っていた


・祝福の声があれば、また反対の声があるのも事実。「果してうまくいくかしら」「いきっこないわよ」という外野の声は、庶民の世界でもよくあることである。


・「平民の出とはいえ、正田家はそれでも立派な富豪。戦前と比べて力の落ちた旧華族よりも、かえって財力はありました。しかし、今度の川嶋さんは、3LDKの官舎住まい。いかに学者一家で一流の家柄とはいえ、いったいどんなお考えでお嬢さまを天皇家に嫁がすのでしょう」はっきりいって、家柄と財力があまりに違いすぎるというのだ


・「皇族関係者の間では、はやくも、川嶋家がやっていけるのかという危倶の声があがっていますよ


・「川嶋先生の年収はだいたい800万円というところだと思います。」


うるさい方々が沢山目を光らせています。


・「だから、ミラーズ・ドーター(粉屋の娘)では務まらないのよ」というカゲ口もたたかれたというのだ。


・「紀子さんと一緒になれないなら、皇籍を離れてもいい」という“皇室離脱”発言が飛び出すことになった。


・何事にも紀子さんの意志を尊重してきた辰彦氏


お互いに好きな者同士を一緒にさせてあげたいと述べられ


美智子さまの「宮廷革命」は、必ずや、紀子さんのそれへと続いていくはずだからである。


学習院の同窓会である常磐会は権威をもち、「常磐会でなければ日本の上流にあらず」


・昭和37、38年のこと、常陸宮さまがまだ義宮さまの時代、キリスト教に興味を持ち、侍従を通して聖書を持っておられた。それを聞きつけた昭和天皇が、「どうして持っているのか」と聞かれると、義宮さまは仲のよかった美智子さまへの甘えか、「美智子さまから頂いた」と答えられたというのだ。


・紀子さんは来たるべく新しい年に備えて、花嫁修業と思われるお花のお稽古を始めるとともに、大学院にもひんぱんに顔を出すようになった


・中野の労働福祉会館で開かれている、日本チター協会名誉会長、束京女子大名誉教授の村田豊文さん主催の「お茶の会」に出席。


・同大で開かれる日本心理学会の大会に出席する旅だったが、舞台裏ではちょっとしたハプニングがあった。というのは、紀子さんが大会3週間前まで心理学の会員に登録されていなかったから


異例ずくめの今回の婚約劇は、いわば礼宮さまの一種のわがままで進んできた。


・「靴を脱ぐとなると、(川嶋家には)靴ベラはあるだろうか?」(中略)父・川嶋辰彦氏は、宮内庁側の配慮を察してか、「靴のままで結構です」と、答えていた。


明治以降の天皇家では靴を脱ぐ習慣はなく、皇族・華族間で行われる婚礼等の諸行事もすべて靴や草履をはいた状態で行われている。宮内庁関係者によると、「皇族方はふだんでも、お寝みになられるとき以外は、靴をはかれています。この点では、欧米の習慣に近い」といい、美智子皇后の正田家でも、昔からその習慣があったという


・絹地3巻の色は、ピンク、白、もえぎ色の3色。普通の洋服地の3倍の長さで、1巻幅1.2メートル、長さは約11メートルもあって、これは礼装のローブ・モンタントやローブ・デコルテ1着を作るために必要な長さという。その柄は、ピンクが菊の花を散らして銀糸を入れた“菊もみ”、もえぎ色が金銀モール色の箔入りの“水衣(みずごろも)”、白がおめでたい鳥の絵を描いた金銀箔入りの“明暉瑞鳥錦(めいきずいちょうにしき)”。


清酒6本に関しては、『桜正宗』『菊正宗』『月桂冠』『惣花(そうばな)』の4銘柄が宮内庁に入っているが、このうちの『惣花』といわれた。


・「今までと違って『川嶋さん』と呼んだら、『キコちゃんでしょう、いままでと同じに呼んで下さい』と怒られちゃったんです


・紀子さんが納采の儀で締められていた菊葉紋の西陣の帯。あれは皇后さまのアドバイスによって作られたんですね。当時の美智子さまの帯は、京都の老舗『龍村(たつむら)』が織ったものなんです。


・昭和30年代の半ば、場所は東京大学のキャンパス。紀子さんの父・川嶋辰彦氏(50)と、母・和代さん(48)も、紀子さんと礼宮さまのように“キャンパスの恋”で結ばれたのだった


・「2人が結婚したのは、辰彦氏が東大の大学院生だったとき。和代さんとは、まだ学部にいたころにダンスパーティーで知り合ったといいますね」当時の和代さんは、昭和女子大短期大学部英文科の学生。


・式は東京・杉並の高井戸教会披露宴は教会の付属幼稚園のホールで、会費制で行なわれたという。


お姑さん(辰彦氏の母)は、ご主人を早くに亡くされて、苦労を重ねて子供達を育てあげた


ミッション系のお嬢さま学校として知られる静岡の英和女学院から昭和女子大へと進んだ。


・紀子さんは、こうした背景のもとに、両親の“キャンパスの恋”の結晶として、この世に生を受けたのだった。


・紀子さんを語るとき必ず海外体験が引き合いに出され、“国際感覚を持つお嬢さん”と評される


・『話すとき、日本語より先にドイツ語が頭に浮かんじゃう』と言っていた


・選択課目の中国語


・宮家へお出しする場合も『○○宮御殿御奥御中と書き、二重封筒にして、中に○○親王妃○○殿下と書きます』と話しました。


・『その次にはドカンとまいります。お父さま、永々、お世話さまでございましたと……』


・ただ、「すべては神さまが一番いいように決めて下さるから」と言うと、紀子さん優しい声で「はい」と答えたという。


・高校時代に活動したハンセン氏病患者への募金活動の延長線上に、手話の修得があり、心身障害児施設の慰問などのボランティア活動があった。


・紀子さんの愛読書といわれる『生きがいについて』という本がある。


・『こころの旅』には、次のようなくだりがある。“その新しい世界ではすべてのものが新鮮な彩りと輝きをおび、恋の相手はいやが上にも美しくまぶしく見える”“結婚に踏み切るにはつねに冒険が伴う。ときには高い崖からとび降りるほどの勇気と決断が要ることだろう。しかし、冒険なしの人生はありえない

(部分抜粋引用終)

http://www.junpay.sakura.ne.jp/index.php?option=com_content&view=article&id=190:ldk-&catid=42:2009-01-31-14-03-27&Itemid=64
LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』(1990年6月20日 ブレーン出版)(2)

礼宮さまが20才、紀子さんがまだ19才のときである。紀子さんが学習院大に入学した昭和60年4月から約1年2ヵ月後の“電撃的プロポーズ”は、礼宮さま自身の口から次のように語られた。「プロポーズの言葉はたしか、昭和61年の6月26日だったと思いますけれども、たしか、『私と一緒になってくれませんか?』と、そのようなことをちょっと話した記憶がございます」


・紀子さんが学習院大学に入学したのは昭和60年4月。それから約1年後の光景がこれであった。そして、その年の6月には、もう“信号待ちでのプロポーズ”となるのだから、青春の出会いとは素晴らしい


美智子さまのときもお1人で会見にのぞまれ、かたわらにはご両親が控えていらしたのである。


天皇陛下の弟宮、義宮さまは、津軽華子さまと昭和39年9月30日にご結婚。常陸宮家を創設されたが、お2人の出会いはお見合いの席だった。


天皇陛下の妹宮、清宮貴子内親王が当時日本輸出入銀行に務めるサラリーマン、島津久永さんとご結婚なさったのは、昭和35年3月10日のことだった。(中略)お2人が出会われたのは昭和34年1月19日、麻布の国際会館、当時の徳川義寛侍従がお引き合わせしたものだった。


・さまざまなロイヤル・ロマンス。こうしてふり返ってみると、そのどれにもこれという共通項はない。礼宮さまと紀子さんがそうであるように、他の皇族の方々も、きわめて個性的にご結婚なさっているといえる。人それぞれに個性あり、現代において最も大事なこの人間の特性は、やはり結婚という人生で最大のポイントを大きく左右するのであろう。礼宮さまと紀子さんのロマンスは、その意味で、まさしく礼宮さま的であり、さらに平成という新時代にふさわしいものといえるだろう。


礼宮さまは、従来の皇族のイメージとはずい分違うキャラクターを持ったプリンスである。金のブレスレットをされたり、口髭をはやされたり……。伝統と格式の皇室ファミリーの中にあって、どちらかというとその自由奔放ぶりが話題になることが多かった。


・婚約後の会見で、辰彦氏は静かな口調で、当時の親としての心境をこう振り返っている。「紀子が大学に入って1年のとき、かなりたってから、サークルの友達の中のお付き合いとして、礼宮さまと交際申し上げているというところで、知っておりました。」


・『皇籍離脱』問題。昭和天皇崩御されたばかりの平成元年の春、突如としてこの問題が報道されたときは、あの礼宮さまのことだからそんなお考えもあろうぐらいにしか受け止められなかった


・紀子さんとの結婚。それを反対する宮中内部の理由とは、おおまかにいって2つあった。ひとつは、「お妃になられる方は格式あるお家の方が望ましい」という考え方、つまり、家柄の問題で、それまでの皇太子妃選びのなかでも「旧皇族か旧華族がふさわしい」という声が圧倒的だった。とすれば、川嶋家はこれに該当しない。それどころか美智子皇后のご実家と比べても、川嶋家は財力などの点で確かに劣るのだ


・おそらく悩みに悩んだ。そして、やはり、すべての反対を押し切る道を選んだのである。


・(皇室の伝統的考え方よりも、愛を)と、礼宮さまは決意した。


・両陛下は、伝統的な考えより、むしろこれ以上交際が長びいて破談にならない方がよい、とご判断されたようです


まさか、いつも「じゃあね」などと言っている女性を、皇室がお妃にむかえるわけがないのだ。


・子供そのものより両親の印象、教育方針、人生観までが、選考の重要なポイントになる。


・高等科に入ることは常磐会入会資格者になることだが、こちらも偏差値は高い。


・「皇室会議でのご決定は誠にありがたく、みなさまのご結論をつつしんでお受け申し上げたいと思っております。この機にあたり、紀子には皇族としての責務をしかと自覚し、自覚のもとに自重し、自覚に照らし合わせ、陛下に対して尊敬申し上げ、礼宮さまのご指導のもとに新しい家庭、宮家の中で、気負うことなく人間性を結実してくれればと願っています」


・「テレビのない家」は、しっかりした教育方針を持ち、お嬢さまが育まれる家庭なのである。


・紀子さんは、こうももらしたことがある。「小さいころの体験のおかげで、いま、自由な発想で物事を考えたり、国籍や年齢を超えて、いろんな人とお友達になれるんだと思います」 この言葉の底にあるのは、自分だけが特別ではない、人間は皆一緒であるという考え方だ。

Q1:天皇家にとって、なぜ伊勢神宮は大切なのか?
《A》伊勢神宮には皇室の先祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)が祠(まつ)ってあるから。ご神体はその神話に登場する三種の神器」の1つである八咫鏡(やたのかがみ)


Q2:日本の憲法第1条には、どんなことが規定されているか?
《A》「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第1章第1条)。

・「たまたま好きになった人が宮さまだっただけ」――紀子さんは親しい友人には、礼宮さまとのことをこうもらしていたという。


・このとき、紀子さんは、家柄・資産など、2人だけでは解決できない問題があることを暗にこう言った。


・「結婚するなら、白いピアノと黒い馬をプレゼントしてくれる人がいい


・「私は結婚しても自分のやりたいことと主婦業を両立させていきたい」


・「ずっと甘くて、辛くて、という感じの関係がいいと思います。ぴりっとしたタイ料理のような……」


・「赤坂御所と書くだけで着きます、いまは“豊島区・川嶋紀子”だけで届くのよ」

(部分抜粋引用終)