ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

Memento Mori を知らない

昨日書いた、身内による取り返しのつかない行為の暴露話(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160225)は、単なる小姑の愚痴や不平不満のレベルを超えて、結局は、以下が原因なのだろうと思われる。極めて憂慮すべき事態である。
廣淵先生、ミルトス様、本当にタイミングよく、ありがとうございました。

http://hirobuchi.com/archives/2016/02/_memento_mori.html#comments


February 25, 2016
霊柩車を「見たくない」という人々 Memento Mori -


・同じ仏教徒である日本人とモンゴル人で、なぜかくも霊柩車に対する好みが違うのか? それを突き詰めて考えてゆくと、死という「動かしがたい現実」を正面から見る勇気、謙虚さの有無に行き着くのではないか、と思えてきます。「死はいやだ。だから霊柩車は見たくない」と思う人々と、「いやでも死という現実はおそかれ早かれ万人に訪れるものだ。それを日々に思い起こさせてくれる霊柩車は、貴重な教師ではないか」と思う人々が、この世界にはいるのだと思います。どちらがいいか悪いかの問題ではありません。ただ「いやな現実を正面から見ることをきらう日本人がふえている」ことを、この番組は教えてくれた気がします。


現代日本の一番の問題点は、死を意識することが少ないことだと、かねてから思っています。
まず平和な日本の国内において戦乱やテロ、飢餓などで身近に死を見ることは希です。さらに核家族が増えて親族の死に直面することすら少ない


核家族がふえた結果、死どころか同じ家の中で「老」を体験することも稀でしょう。日本人は世界の中でも、死や老を見ることが最も少なくて済んでいるのかも知れません。しかし死という現実に目を覆っていれば死はなくなるかといえば、けっしてそんなことはありません。死は冷厳な現実です。死を正面から見据えることを怖がっているのは、現実を正視するのが怖いからでしょう。目をそむけていれば現実が逃げていってくれるのなら、たしかにそうすればいい。しかし目をそむけていても、現実は我々を待ち受けています。

(部分抜粋引用終)