ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

単純なレッテル付けを控えよう

記憶によれば、大学生の頃までは、「政治と宗教のトピックは、会話に含めないのがエチケットだ」と、「エチケット・ブック」なるものに書いてありました。論争になるのと、微妙な話題だから、控えた方が礼節にかなうというのです。
もっともなことだと思って、その通り信奉していたつもりだったのに、気がついたら、今の大学では、真っ正面から研究や講義のテーマに扱われるようになっています。むしろ、「もっと興味を持ってください」と注意までされる始末。
英国人ならば、初対面の人々との会話では、天候の話が無難だと習いました。かくいう日本人だって、手紙の冒頭には、季語を含むご挨拶文を入れるのが通例です。メールが横行するようになって、それはビジネスでは不要だ、とまかり通るようになりましたが、葉書でも書簡でも、個人宛ならば、時候の挨拶を入れなければ、かえって失礼だと思います。
ところで、4月19日はホロコーストの日でしたが、非常に難しいと思ったのは、知っていながら沈黙していた方がいいのか、それとも、知った以上はご挨拶を送った方がいいのか、判断に迷う点です。例えば、私はカトリックの幼稚園で教育されたことで、キリスト教や聖書に自然な関心を抱くようになりましたが、第二ヴァチカン公会議の直後でもあり、新鮮で生き生きとした雰囲気のみなぎる、先進的な教育だったと今でも思います。そして、そのことによって、イスラーム圏だとされるマレーシアでも、植民地時代から続いている地元のカトリック教会に対して、何ら抵抗感なく近づけたのだろうとも思うのです。そもそも、マラッカ(ムラカ)を経由して、フランシスコ・シャビエルによるキリスト教(その他もろもろ)の伝来が日本にもたらされたのですから。
しかし私は、カトリック信者ではありません。カトリックのよい点には充分学び、敬意を抱いてはいますが、歴史的経緯で、ちょっと(う〜ん)と感じる面もなきにしもあらず。もっとも、すべてのカトリック信徒が文字通り、それを固く信じて従順に実践しているとは思わないですし、中には改革的な考え方の方もいらっしゃると思うのですが、ある面では、プロテスタントの方が個人の自由度が高く、融通が利くのでいいと考えているところもあります。
そして、アメリカの福音派の動向についても、新たな統計を見て、考えさせられました。親イスラエルの支持層にとって、米国の福音派は、神学的にも重要なファクターだったようですが、現実には、昨今、ムスリムに親しみを持つクリスチャンが増えたとの由。人々が、宗教や信条にかかわらず、仲良くするのは望ましいことですが、問題は、その含意と行き着く先です。
福音派と言っても、一言で語るには幅が広過ぎ、日本で説明されているほど単純だとは、私は思っていません。結局のところ、いろいろな人がいることだけは知っていますので、自分から枠組みで相手を決めつけない柔軟性を持っていたいとだけは、願っています。
それと、難しいのは、アラブ系クリスチャンの存在です。パレスチナにもイスラエルにも少数派ながらアラブ系キリスト教徒がいることは、広く知られていますが、親イスラエルの立場を取った場合、「ユダヤ人国家」内のアラブ系クリスチャンの位置づけは、二級市民の枠外に置かれてしまうのでしょうか。そもそも、民族意識の方が強いのか、宗教的なアイデンティティの方が勝るのかも、私には判然とせず....。
「クリスチャンの位置づけは曖昧だ」と、イスラエルに10年ほど留学し、ご夫妻共に、イスラエルの著名な大学から博士号を授与されている日本人の方から、8年ぐらい前にうかがったことがあります。確かに、「隣人愛」の実践を考えた場合、原則論に立つならば、自分の「敵」も含めた全ての人が「愛」の対象となるのですが、しかし、現実面では、「いったい、どっちの立場なんだ?」と、問題を複雑化することにもなりかねません。
では、かくいうあなたはどうなんですか、ということですが、私にとってのキリスト教は、もっと開かれたもので、気がついた時には、ごく自然に身についていたといった方が正確でしょう。日本の文化文脈の中で位置づけられているものですから、アメリカや欧州のあり方とは、多少、色彩が異なってくるのはやむを得ないことだと思います。ですから、直接的にはイスラエル動向とは関係がないし、だからといって、反ユダヤ主義との関連もありません。そもそも、反ユダヤ主義とは、イエスユダヤ人だったことを思えば、おかしいわけです。小学校の頃から、変だ変だと、ずっと思ってきました。そして、イスラエルに関しては、一国の存続を賭けての日々の闘いであり、我々の日常感覚だけで割り切ることの許されない、厳しい現実だと認識しています。宗教上の感覚とは別個のものです。どうぞ、そこはくれぐれもお間違えの無いよう...。
「あいまいな日本の私」と喝破したノーベル文学賞受賞者がいました。大江健三郎氏については、実は私、これまで作品を読んだこともなく、新聞連載を読んで(う〜ん、それはどうか)と批判的に思うことの方が多い作家です。ですが、この表現についてのみ、直接の衝突を避ける点で、一面、賢明なあり方だとも言えるのかもしれません。