ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『アゴラ』から(1)

アゴラ』から目に留まった議論の幾つかを、テーマ毎に部分抜粋。
1.マルクス主義の陰影

(1)(http://agora-web.jp/archives/1657647.html


毛沢東 大躍進秘録」
青木 亮


毛沢東の失政は、数えきれないほどあるが最大のものは大躍進の失敗だろう。1958年から60年に及ぶ餓死者3600万人は、史上比較するものがないほどの暴政の産物である。


1 農業生産における要因
土地公有制による生産意欲の低下
土地公有、生産物公有の結果農民の勤労意欲は著しく低下した。不合理な密植深耕は、農業資源の浪費、不作を招いた。


2 農産物の不合理な配分
飢餓は必ずしも食物の絶対量の不足によって生じたわけではない。合理的な配分がなされていれば、飢餓の相当部分は防げたはず。地方幹部は中央にいい顔をするため生産量を過大に申告した。それが過大な供出、末端における食料不足につながった。当時中国は食料しか輸出するものがなかったので、工作機械等輸入代金決済のため食料を輸出した。対外債務の支払い(ソ連向け)、友好国への援助にも食料が使われた。


3 農業外の要因
公共食堂における濫費無料無制限で食事を提供したため、腹がはち切れるほど飽食するものが多かった。社会主義であるから食料が不足すれば国家がいくらでも提供してくれるという思い込みがあった


毛沢東が、あれほど鉄鋼の増産にこだわったのは、経済建設で大きな成果を収めスターリン亡き後世界の社会主義諸国の盟主たらんとする野望があったから。


雀は害よりも益が多いことを知らず雀退治に精を出した。その結果害虫が大量に発生し農業生産に打撃を与えた。


・暴君の虐政を誰も止められず、それどころか暴君におもねって下に臨み過大なノルマを課す共産党の組織自体がはらむ病理が生み出したものと見るべきだろう。当初大躍進に否定的だった劉少奇周恩来等幹部も、毛沢東が大躍進に執着していることを知ると、毛沢東に調子を合わせるようになった劉少奇文革中批判され悲惨な死を遂げたが、大躍進失敗の責任の一端は免れない。


スターリンは、ソ連邦の建国者ではないため最後までレーニンの正統な後継者であることを自らの正統性の根拠としたのに対し、毛沢東は建国の英雄であり、毛沢東を否定すれば、共産党政府の正統性が揺らぐからだ。さすがに大躍進、文化大革命を主導した毛沢東を無条件で賛美することはなくなったがそれでも「功績7分、誤り3分(�殀小平)」と肯定的な評価だ。


・中国政府は日本に対し「歴史を直視せよ」と説教を垂れる前に、建国以来60余年の自らの歴史を直視しなければならない。

(部分抜粋引用終)
上記は、少しでも現代中国に関心があれば容易に合点がいく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141222)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150905)。
ところが、次のシンガポールになると、いささか厄介だ。こういう話になると、1990年代初期という節目の時期に、計4年間、マレーシアとシンガポールを両方、現地観察できたという強みが生きてくる。当時のシンガポールは、首都クアラルンプールを少し小綺麗にした感じで、マレーシアよりもっと洗練された英語が通用したが、マンダリンも同時に自己主張していた。しかし、自発的な発展というよりは、強制された人工都市国家という窮屈な印象だったことを覚えている。
人民行動党は、1976年に除名されるまで、民主社会主義を掲げ、社会主義インターナショナルに加盟していたことに留意。

(2)(http://agora-web.jp/archives/1657628.html


「明るい北朝鮮」、シンガポール
岡本 裕明


・香港についてみると日本人からみて本当に輝きを持っていたのは中国への返還前の97年までだった気がします。まさに自由で安全だというイメージが日本に強く伝わっていたのだと思います。その香港の人は97年の返還以降、中国主導になれば何が起きるかわからないと戦々恐々としていました。それが世にいう資産の分散化と複数のパスポート取得を通じてリスクヘッジをする発想でオーストラリアやカナダ、イギリスにとてつもない資金が流れ、現地不動産の高騰を招いたわけです。
・今、香港がそれほど魅力的だという人は少ない上に「中国圏」で唯一ギャンブルができるマカオは瀕死の重傷ともいえるカジノ売上激減に苦しんでいます。習近平国家主席の腐敗撲滅運動がギャンブル抑制に走っているわけです。
シンガポールを考えると実は私はある不安を感じます。それは「独裁政権」であるということです。極端な話、北朝鮮となんら変わらず朝日新聞も現地の声を踏まえシンガポールを「明るい北朝鮮と言い表したこともあるのです。
シンガポール建国の父、リー クアン ユー氏は人民行動党のリーダーとして1959年から1990年まで首相として君臨し、そのあと中継ぎのゴー チョクトン氏が14年間のロングリリーフのち、リー クアン ユー氏の息子であるリー シェンロン氏が満を持して2004年から登板しています。
・同国に野党はあるにはありますがほとんどないに等しく、民主的ではない国というイメージもあり、2012年のギャラップ幸福度調査では148カ国のうちシンガポールは最下位でした。つまり、国民は経済的にある程度の自由度を提供され、大きな不満も抱えていない反面、幸せだとも思っていない現実がそこにあります。
・国家の水準はGDPだけでは当然推し量れないわけで同国が如何に経済的に好調を維持しているとしてもそれは真の姿かどうかは検証すべき課題であります。

(部分抜粋引用終)
シンガポールが日本を抜いたと友人が喜んでいたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080811)、世界史の中で日本とシンガポールの歴史を比較すれば、アジアでは断然、日本の歩みの方が有利なことには変わりがない。ただし、今後の保障はないことも決して忘れてはならない。
これについては、古びたノートにリサーチ記録が残っているので、雄弁な立証が可能だ。インターネット時代には、アナログ経験こそが生きる。

2.教育問題

(1)(http://agora-web.jp/archives/1657515.html


ゆとり教育」は正しかった
中沢 良平


・「新学力観」は、「習熟」よりも「興味・感心・意欲」に重きをおく、つまり「姿勢が大事」という価値観である。語彙や計算等の習熟は「つめこみ」だから問題だ、という風潮を学校に蔓延させた。
・新学力観とは、1989年改訂の学習指導要領で採用された学力観である。
・「ゼロから解き方を考えさせる」のを目指す。九九を発見することに血道をあげ、九九の習熟は「つめこみ(=旧学力観)だからだめ」とした価値観が、教育現場をゆがめ、いわゆる「ゆとり世代」の学力低下を招いた原因だと思われる。
・「新学力観」とは、具体的には「問題解決学習」であり、「ゼロから解き方を考えさせる」という聞こえのよい施策ではあった。しかし、これは問題があった。学力が平均もしくは平均以下の児童生徒に、数学でいう定義を発見せよという崇高な課題を提示したからだ。また、「練り上げ」と呼ばれるディベート」のような学習形態を見ている大人は、子どもたちの懸命のやりとりに感動を覚える。しかし、テストをすると、九九はおぼつかない、くり上がり・くり下がりはできない、通分・約分はできないという状況になる。
・テストができているからといって、ほんとうの理解ができているとは限らない。だが、テストができていなければ、最低限の理解もおぼつかないということは言える。
・「習得」を「古い既習内容」と切り捨て、平均的な労働者となる子どもたちが身につけるべき技能を身につけさせないまま、社会に放りだしてしまったという点だ。創造的な発想は今後ますます必要だ。しかしそれを全員に求めるのはむずかしい。
・グローバルに活躍するであろう子どもたちのためであって、すべての子どもに「ディベート」授業のような水準を要求するのは難しい
・「読み・書き・計算」や「ルールの理解」、「平均的なコミュニケーション能力」をもつ労働者をつくるための勉強をする場にすべきである。

(部分抜粋引用終)
ディベート」云々については、上記の意見に同感。過去ブログのコラム欄を参照のこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150513)。やはり、「読み書き算盤」の寺子屋教育は、少なくとも日本向けには正解だったのだ。

(2)(http://agora-web.jp/archives/1657408.html


「学校社会主義」を卒業して教育の自由化を
池田 信夫


・国立大学の授業料53万5800円を私立の平均(約86万円)まで引き上げる財務省案が反発を呼んでいるが、これは当たり前だ。Vlogでもいったように、大卒平均と高卒平均の生涯所得の差は約5000万円なので、4年間で340万円の授業料でも収益率は10倍以上である。
・大学の主な機能が、教育機関ではなく選別機関だからである。したがって「人物本位」の入試にすると情実入学が横行し、大学入試の選別機能が低下する。
知識集約型の産業で食っていく日本で、教育はもっとも重要な産業だが、それを文科省社会主義的に管理していることが改革を阻んでいる。学生数に応じて一律に支給される私学助成は廃止し、国立大学への財政支出も削減すべきだ。
・小中学校は規律をたたき込む訓練機関であり、それが荒れる原因だ。大学は学歴によるシグナリング装置であり、それが文系大学の空洞化する原因だ。

(部分抜粋引用終)
ここまで日本の教育政策が荒廃したか、という見本のような論説。第一、国立大学と私立大学の授業料を近似にしろという要求そのものがおかしい。
税金で成り立つ国立大学は、国のために役立つ人材育成という理念があったはずだ。私立は自由に学風を作り上げる点に魅力があったものだ。私の世代だと、国立と私立の併願で、両方に合格しても国立に進学する人が大半だったが、その方が授業料が安くて助かるという親御さんの意向も多分にあった。ただし、税金の学校で学ぶ以上、公の精神を持つのは当然であって、だからこそ私も、まじめに勉強しなければ納税者に申し訳ないと緊張しつつ、通学したものである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091125)。
もう一点。「人物本位」の入試にすると情実入学が横行するという箇所だが、ここを読んで想起したのが、stap細胞事件の主人公(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140315)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150317)。実験ノートも書けない人がなぜあそこまで、という疑問だったが、ここで納得がいく。
最近、ある人と電話で話していて、「学歴より人柄」と言うのを聞いて、妙に納得した。もちろん、大学に行ったことのない人だ。仕事やリサーチで、途上国も先進国も少し見てきた私にとっては、そんなおめでたいことを堂々と言えるのは日本だからだと、唖然とした。人柄(明朗さ、正直、勤勉、常識、礼儀作法、約束厳守など)が重要なのは当然のことだが、人柄だけで世の中は渡っていけない。学歴で生涯所得に差がつくとなれば、誰もが自分の身の丈に合った学歴を求めて努力するのは、当然ではないだろうか。足を引っ張るのもいい加減にしてほしい。それは以下の議論に続く。

http://agora-web.jp/archives/1657725.html


「研究機関としての大学」の抜本的な改革
松本 徹三


・人文科学や社会科学の分野ではどうだろうか? 現在議会で行われている政治家の討論などを聞くと、数千年前の古代ギリシャの議場での議論とあまり変わらないというか、むしろ劣化しているのではないかとさえ思える。更に、この分野での研究の積み上げの成果が、実際の政治や経済運営にどのような影響を与えたかを考えてみると、ここでも殆ど役に立った形跡がない事が分かる。


・人文科学や社会科学となると、主役は人間となり、人間は複雑で、その思考や行動のパターンが一律ではない。従って、推論が難しい上に、実験が不可能なので、推論の実証に極めて長い時間がかかり、なお実証されたとは言い難い状況に止まらざるを得ない。人文科学や社会科学の分野での唯一の実証は「歴史」であるから、世界の「歴史」の研究はもっと組織的且つ精力的になされて然るべきだと思うのだが、実際には、「歴史」は各国の時の権力者が自分の地位を保全する為に利用される事が多いので、純粋な研究が方々で阻まれているようだ


1) 研究者自身(好きな研究に打ち込んで生計が立てられる。場合によれば、社会に大きな貢献ができ、歴史に名を刻める。)
2) 企業(基礎研究等を大学等でしっかりやっておいて貰えると、その成果をベースにして、自社の為になる研究開発に自社の技術者を専念させられるので有難い。)
3) 国(国の知的水準を高める事により、他国の尊敬と信頼を勝ち得る事が出来る上に、自国の産業も間接的に助ける事が出来る。社会科学系の研究は、自国の法制度を整えたり、経済政策に遺漏なきを期したりする為に利用できる。)
4) 学生(将来の進路の一つの選択肢として、研究の狙いと実態を間近に見る事ができる。)


・芸術の世界では、モーツアルト等が活躍した時代から現在に至るまで、若い人達に教えるのが芸術家の最も大きい収入源になってきている。モーツアルト等は幾多の名作オペラを書き下ろし、ウイーンの劇場で大喝采を受けたものの、これから得られる収入は僅かなもので、素行が怪しげだった為に貴族の女性達の家庭教師になる道が閉ざされた為に、いつも貧乏に苛まれていたと聞く。


・「自分の書いた本を読まないと単位が取れない仕組みを作って、自著を高値で学生に売る」というビジネスモデルも、あまり感心すべき事ではない。結局は、色々なコネを使って自ら走り回り、国や企業から研究費を取ってくる教授や准教授が、学内でも幅を利かす事になっているというのが実態の様だ。


・国としては、国が重要だと考える研究に従事している有能な学者に対しては、諸外国の大学に負けないくらいの十分な報酬を支払うべきだし、研究施設を充実させる資金も十分に拠出すべきだ。


・現在のシステムだと、教授会が全てを決め、誰が次に教授になれるかも、教授会に所属するボス達が決めるので、ここに極めて封鎖的な親分子分システムができているように見受けられる。


・大学の経営(当然人事を含む)は経営のプロに委ねるべきだ。プロとしての経営者には、オープンで公明正大なやり方で個々の研究者の活動を支えるだけでなく、「戦略的な考え」に基づいて研究対象を選択せねばならない。(現在のやり方では、先任の教授が自分の得意な分野に対象を絞るので、対象がどんどん陳腐化していく恐れがある。)


・一般の企業ならすぐにメスが入れられる事だが、大学ではボスの意向に従うのが第一と考えられている為か、そんな徴候は全く見られない。


・何でもかんでも自前でやる事が当然とされてきたように思えるが、こういうやり方は今後は思い切って変えていかねば、コストを抑えられないのみならず、成果を出すまでに時間がかかりすぎ、国際的な競争力を失ってしまう。


・産学連携も、異分野間の交流も、研究活動を「権威主義」から「目標管理主義」に転換させる為に大いに役立つだろう。多くの研究には「発想の飛躍」が最も望まれるから、この為にも役立つだろうし、人員の相互乗り入れにより各研究員の視野が広がるという利点ももたらされるだろう。


梶田隆章さんがニュートリノに関する研究でノーベル賞を受賞した事から、かつての民主党政権下で、この研究が「事業仕分け」の対象となり、もう少しで予算を削られることになっていた事が明るみに出た。「どうせ内容は分からないので、とにかく一律に予算を縮小する」という方針が背景にあったと知って驚いたのは、私だけではないだろう。

(部分抜粋引用終)
末尾の「どうせ内容は分からないので」には驚愕する。わからないなら、予算を削れないはずだ。論旨が矛盾している。工作員が背後で攪乱しているに違いない。