ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

韓国“素通り”

アゴラ(http://agora-web.jp/archives/2030622.html

中国文明は韓国“素通り”で日本にやってきた」
2018年1月19日
八幡 和郎


翁長知事が名誉市民になっているのも、台湾の対岸の福州市なのであって、上海方面との付き合いなどあったことがないのである。


韓国人やそれに媚びて奉仕するアホな日本人は、中国文明朝鮮半島に伝わり、それが日本に伝わったといいたがるのだが、それは違う。邪馬台国への使いはソウルと平壌のあいだにあったとみられる帯方郡から沿岸を釜山付近まで船で行って日本に渡っている。その途中の未開地域(百済新羅)など目もくれなかった


日本の米は朝鮮半島の沿岸を経由してやって来た可能性が高い。港に立ち寄ったり、一時的に滞在したこともあっただろうが、それなら、日本の米でもっとも多い品種がなぜ朝鮮半島にないのかといえば、栽培を試みたが、気候が寒冷なのでうまくいかなかったのではないか。


武帝の時代になって漢帝国朝鮮半島北西部を編入して楽浪郡などを置いた。このルートで奴国王や卑弥呼と漢や魏が交流している。このときも、半島南部の未開地はほとんど蚊帳の外だ。そのあと、今度は、大和朝廷が半島に支配を伸ばし、4世紀には南朝と直接交流したが、雄略天皇のときに中止している。


・①百済満州系の扶余人で言語も韓国と関係ない。そして、百済唐(中国)と新羅(韓国の前身)に滅ぼされた日本の友好国で多くの遺民は日本人になった
百済から来た人で日本に文化や技術を伝えたのは漢民族ばかりだ
③日本は百済には領土を割譲したり軍事援助を与えるなど見返りは払っているので恩恵を受けたわけでない


平安時代に朝廷が有力な家柄の人々、広い意味での貴族たちについて、自己申告で由来を届けさせ、それが「新撰姓氏禄」として残っているが、畿内では全体の3割ほどが、「諸蕃」、つまり日本が統一されたのちにやってきた帰化人の子孫と位置づけられているのだが、「漢」が163氏、「百済」が104氏、「高麗(高句麗)」が41氏、「新羅」が9氏、「任那」も9氏、さらに、それ以外(不明ということか)が117氏挙げられている。つまり、韓国の前身である新羅からの移民などほとんどなかったし、文化も新羅からたいしたものは入っていないのである。

(部分抜粋引用終)
八幡氏に関する過去ブログ引用は、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180117)。
上記説が正しいならば、私が通っていた名古屋地方の公立学校での中学高校時代の歴史教育は、教科書そのものが間違いであったことになる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180102)。ずんぐりむっくりの原型である縄文人が長らく日本列島の主流だった後、朝鮮半島由来の「渡来人」によって「高度な文明」がもたらされて稲作が伝わり、混血によって、ほっそりとしたたおやかな体つきが増えたと、教科書上では習ったし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150404)、試験もそのように出題されていたと記憶している。つまり、より高得点を試験で取るためには、教わった通りに解答していたわけで、刷り込み法としては満点だったのである。