ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

高校の同窓会から勇気を得た

フェイスブックhttps://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)とツィッターhttps://twitter.com/ituna4011)にも投稿したが、以下に転載を。

http://agora-web.jp/archives/2034405.html


・地域災害のケースや、県・市が対等な場合、災害対策本部長を各自治体の首長全員が務めるということになってしまうと、迅速な意思決定が出来なくなり、誰も責任を取る必要がなくなります。


・防災省を作る、ということは、横並びの組織をもう一つ増やすこと


・結局、復旧復興の手足は国交省、みたいなことになる


国交省が優位に立って、防災省は三流官庁となり、存在感を発揮


・他の省庁と並び立って意思決定にいっそうの時間がかかる


・災害時に必要なのは、現場にある程度の裁量を持たせながら最終的には責任を取ってくれる存在


激甚災害の時には、内閣官房が実質的なリーダーシップをとり各省・各自治体に命令を下す、という意思決定プロセスを確立すべき


・危機管理能力の劣る自治体が国の制度導入をするための裏付けとして、そしてさらに、財政力のない自治体を側面支援するためのものとして、自治体や各地方出先機関に命令してくれる機関が必要


・総理官邸しかあり得ません


南海トラフ地震や首都直下地震を想像すると一刻も早く、官邸が責任を負う、「調整機関」ではない、指揮「命令」系統を作るべき
(部分抜粋引用終)

← 防災省を提案しているのは、辻元清美である。(『立憲民主 号外』 2018年夏号 p.2)

(転載終)

国交省のモニターを一年間務めたことがあるが、謝礼の割に、馬鹿げた単純なアンケートが多くて、大変に残念だった。謝礼なし(無料)の国政モニターの方が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B9%F1%C0%AF%A5%E2%A5%CB%A5%BF%A1%BC)、遥かにやり甲斐があり、充実していた。
上記の『立憲民主 号外』は、昨日、郵便受けに入っていたので、提案を知ったが、ついでに辻元清美氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100328)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C4%D4%B8%B5%C0%B6%C8%FE)のブログを久しぶりに覗いてみると、以下のような記述があった。

https://www.kiyomi.gr.jp/blog/15082/


・「障がい者雇用水増し問題」について、本日、野党6会派を代表し、与党に厚生労働委員会の閉会中審査をおこなうよう申し入れをしました。
・障がいをお持ちの方やそのご家族は、きちんとした仕事に就きたい、そしてしっかりと自立の道筋を作っていきたいと切実に願っています。

(部分抜粋引用終)

この制度の恩恵に与って、助かる障害者も少なくないだろう。その場合、障害の種類や程度と、職場や職種との兼ね合いによる考慮が必要である。一方、雇用者にとっては、障害者を2%も採用することによって格段に生産性が落ちるわけで、そのバランスと弊害をどのように処理するのだろうか。
辻元氏の見立てをどうぞ!

また、「きちんとした仕事」「しっかりと自立」とはいえ、自宅でゆっくり療養したい障害者もいるのでは?その方が、世の中の安定につながる場合もあるのではないか?
辻元氏の見立てをどうぞ!

但し、家族の場合は別途考えてほしい。家族は健康なのに、家庭内で障害者を持ったばかりに、なし崩しに一緒に生活の程度が下がっていくのは、何とも苛立たしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180728)。
辻元氏の見立てをどうぞ!

この制度のまやかしは、高収入の人には「差別的」で、「払える人は払ってくださいね」というしわ寄せが発生していることである。だから、進行していく障害を抱えつつも、定年まで頑張って働き続けなければ、現状の生活が維持できない患者も増えていくのである。
辻元氏の見立てをどうぞ!

「賃金格差」による「格差是正」ばかりを唱えるが、私の経験では、「時間格差」「時間差別」が甚だしい。病気や障害の質によっては、時間が通常の三倍から四倍にもかかるので、先回って何事も処理しなければ、人並みの生活(つまり、通常の規則を遵守して、社会の迷惑にならない暮らし方)を維持できない。ところが、健康な家族が側にいることを理由に、重要書類の先延ばしや、医師の度重なる遅刻(週一の午前中のみの診察なのに!)をされる場合があり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180824)、それは明らかに「患者の限られた持ち時間に対する差別行為」なのである。
辻元氏の見立てをどうぞ!

時々、人間観察の薄い人達から「意識高い系」だと勘違いされて、私は大変に迷惑している。このブログを名刺代わりにして、やっと理解されることもある。はっきりと物を言うのは、東南アジアの途上国で二十代を過ごした経験からの教訓であり、時間の節約を兼ねてもいる。元来の私は、慎み深い大和撫子だったのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100109)。
国立大学の大学病院には、「医師やスタッフへの恫喝禁止」みたいな掲示板が書いてあったが、恫喝されるような医師やスタッフの甘ったれた態度も問題視されなければならない。毅然とした専門職としての「意識高い系」は何処?

話は変わるが、一週間前に高校の同窓会(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070824)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090724)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180728)に初めて出席した。16歳から18歳まで共に過ごした学窓との再会が、いかに自分を奮い立たせるものかを経験した。私の学年では、同窓生として出席したのは私一人だったが、十代の頃の私を知ってくださっている女の先生が、遠く離れた県外に住む今の私を激励してくださったのだ。
保健体育の担当で、しかも同じ通りのご近所だったこともあり、運動神経ゼロで、保健科目の筆記試験でやっと人並みをキープしていた状態の私は、先生と道ですれ違っても、会釈のみで、常にうつむき加減だった。
その先生は、同じ高校の8年上の先輩に当たり、しかも体育でもの凄い成果を上げられた母校のホープ。大学を卒業後は、再び母校で後輩の体育指導に当たられていたのだった。だから、三年間同じだった私の担任の先生は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100711)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171025)、いつでも「あなた方の先輩が、先生としてここにお見えになったんですよ」と、我々にハッパをかけていたし、我々生徒達の間でも、とても人気のある先生だった。
県立高校の進学校で、男子生徒や男性教師の圧倒的に多い学校において、可愛らしい顔立ちの、お姉さんみたいな先生が、スポーツで抜群の成果を上げられ、保健体育を担当してくださることの心強さは、何物にも代え難かった。
一方、私はと言えば、母校をそれほどまでに愛することのできる先輩の先生というだけでも畏れ多くて、本当に圧倒されていた。(運動神経がもっと発達していれば、部活動も体育の授業も楽しくて、もっと友達も増えたのに)と、いつも感じながら、中学と高校の六年間を過ごしていた。
おまけに、同じ親から生まれてきたのに妹と弟は運動神経抜群で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170912)、同じ屋根の下で暮らしているのに、どうしてこんなに「格差」が出てきたのか、と長子の面目丸つぶれだった。
ある時、町議会の議員のおじ様方がわざわざ出向かれて、家の庭掃除をしていた私に、何を間違ってか、「町内の体育大会に出てくれん?いつも、妹さんや弟さん達、一番かアンカーで走っとるがね」「お姉さん、そんな遠慮しんでもいいよ」等と、まるで勘違いの依頼があった。私の方はびっくり仰天して、「いえ、遠慮できればいいんですけど、本当に遠慮じゃないんです。妹や弟は、私と運動神経が全然違うんです」「家の恥さらしのために参加するようなものですから」と、ほうほうの体でお断りした。
その話をすると、祖母や母親が「ほれみぃ(ユーリ注:標準語では「ほら、御覧なさい」の意)。誰がどこで見とるかわからんから、もっときちんとしとらんといかんでしょ!」「妹や弟のお蔭で、あんたまでスポーツができるという印象を持たれたんだから、感謝しないかんでしょ!」と、これまた筋違いの叱責の種となってしまった。
学校は勉強する所だとはいえ、スポーツの出来具合によっては、これほど長い間、深い心理的な影響を及ぼすのだ。
そんなこんなで、卒業後は一刻も早く忘れたかった高校で、遠慮ばかりしていた同窓会だったが、思い切って出席してみると、あにはからんや、同じテーブルの先輩との会話でも、偶然にも町内のご近所だったり、昔の学風が蘇ってきたりして、昨今のブログ・テーマ等、吹き飛んでしまいそうだった。
結論を一言で述べると、「つまるところ、昭和の子で私は大変に幸せだった」ということである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180715)。厳しく文武両道で鍛えられ、質実剛健、刻苦勉励と、十代の最も大切な人生の基礎作りを助けてくださった先生方や学窓には、恩義をもっと感じなければならない。
同窓会で、元校長先生から、教員と生徒の全員で校庭ならぬ校舎をぐるりと一巡して走る「耐寒訓練」のお話が出てきた時にも、(あ、そういえば緑のジャージを着て、一目散に走っていたなぁ)と思い出した。だからこそ、今でも近所の小高い山まで歩いて上るのが、全く苦痛ではないのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170630)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180703)。
平成になってから、「競争はいけない」「あるがままの自分でいい」「私らしく生きる」みたいな、おかしな政策や風潮が堂々と罷り通ったために、国力が低下して人口も縮小し、難病患者や長引く心の病を持つ人々やニートや引き篭もり君も増え、迷惑この上ない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170107)。
難病や心の病等には、さまざまな原因があることだろうが、国の誤った政策と現状の不一致ということも考えられないだろうか。
このブログでは、身近な経験を綴って憂さ晴らしをしているのではない。自分の経験に基づき、長年の読書で得た知見を添えて、これ以上の国力低下を防ぐための、小さな国民努力をしているつもりなのだ。
県立高校を出たということは、県民税で育てられたという意味である。従って、常に公の精神で、持てる力(があるとすれば)を発揮し、総体としての国力を維持し、さらなる発展のために、ささやかながらでも協力していかなければならない。
もう一言つけ加えると、高校生の頃の私は(偏差値なんて移動するものだし、偏差値で人生が決まるなんてゴメンだ)と思っていて、大学に入っても、偏差値で人を判断することを断固拒否していた。つまり、学校名を聞いても偏差値を無視していたのだった。
ところが、同窓会から帰ってきて、初めて自分の母校の偏差値を調べてみたところ、何と「Aランク」だということが判明した。
これは、熱心な先生方の尽力によるものであり、後輩達も相当に頑張ったということではある。
また、私が卒業した年には、「国公立現役合格200名以上突破」との業績を上げたとして、先生方が喜んでいらしたらしい。迂闊にも、それは今まで知らなかった。実は私もその「業績」に含まれていたのだが、卒業後から先週までずっと、(ご期待に添えなくて申し訳ございません)という気分で一杯だった。
そのことを、上記の先生につい漏らすと、「え!本当にそう思っていたの?凄い頑張り屋さんなのに...」と、これまた仰天されていた。
だが、記憶に基づく限り、私の在学中には「名古屋市郊外の高校はレベルが低い」「農村部の高校は保守的で遅れている」「名古屋市内の学校群では先生が進歩的で、生徒の自主性を尊重してくれる」「愛知の管理教育の弊害」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080123)という噂が罷り通っていたため、頭髪検査を経て、野暮ったい(!)制服を着て名古屋市内を歩くのが、これまたうつむき加減の私だった。
ところが今や相当数の生徒達が、何と名古屋市から我が母校へ通っているというのである。
高校時代、「あなた方は、この地域のエリートなんですから」「地域の方々が見守ってくださっているんですから」と、全校朝礼で校長先生や教頭先生から語られる度に、(え!この私もエリート?(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170711))と戸惑って、反発していた。
さらに今回初めて知ったのは、運動神経抜群で、京大に現役合格した私の弟の高校は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091218)、偏差値がかなり低いということだった。しかし、しばらく前まで閲覧可能だった弟のフェイスブックには、堂々と高校名まで出して自己紹介していた(が、今は、私に対してアクセス禁止)。(あの子は自信があるから高校名も出せるんだ)と、私は長い間ずっと思っていたのだった。弟とは歳がかなり離れていたこともあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081024)、院卒後はすぐにマレーシア赴任だったので、弟の高校のことは全く知らなかった、としてもである。
これは一体、どういうことなのだろうか。
同窓会に出たくなかったのは、
(1)自分の成績が担任の先生のご期待に叶わなかったから申し訳ないという後ろめたさが、30年以上も続いていたこと
(2)主人の病気のこともあり、出世どころではない自分の社会的な位置づけが、輪をかけて後ろめたさを倍増させていたこと
(3)京都文化圏では「四条」以上が「京都」とされているので、母校の「◯条高校」なんて、「何それ?」という対応を某大学でされて、全く腐っていたこと、だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110301)。
両親の出た高校は名古屋市内の伝統校で、父に加え、父方と母方の二人の叔母達や、母方祖父の従兄弟のお嫁さんまで皆、名古屋大空襲で全てを失った戦後、たった数年のあの当時で「Sランク」の高校を出ていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170727)。調べたところでは、今も「Sランク」のトップ校である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131006)。従って、父からは一度も何も言われなかったものの、物心ついた頃から自分で自分に課した目標としては、超えるべき山頂が常に高く遠くて近づけず、という心境だった。
だが、親がどうであれ、客観的指標としての偏差値は、やはり社会的な目安の一つとして重要であると、今回、改めて思った。2,3程度の違いや変動は無視して良いが、十代半ばに一定の偏差値がなければ、長い人生において、いざという時に自分と家族を守れず、生涯賃金にも影響するという現実の厳しさは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170825)、せめて中学生の頃から教え込むべきであろう。
自分に見合った生涯賃金を稼ぐだけの学力と体力を学校時代にしっかりと身につけることこそ、総体としての国力増加と民間防衛に貢献するのだという意識を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160321)、早くから持たせなければならない。
但し、「蛙の子は蛙」であることも、親や親戚が留意しなければならない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150318)。
家業を継ぐならば、それに沿った進路決定が重要である。家系を踏まえず、無謀な親が自分の野心を子に叶えさせようとすることほど、危険なこともない。(私の場合は、戦後の混乱期に両親や親戚ができたことが、なぜ安定した平和な時代の自分にはできないのかということこそ、長年の問題意識だった。クラスメートがライバルだと思ったことは、あまり記憶にない。)
さらに言えば、心身の鍛錬こそが、その後の人生を左右するのである。
辻元清美氏の系統の政治家は、何が理由でそのような政策を唱えるのだろうか。

PS1:結婚前に某国立大学で非常勤講師をしていた時、たまたま私のクラスに、同じ高校の後輩に当たる学生がいた。ある時、「先生、フィルムが余ったから、一緒に写真を撮りませんか」と誘われて、会話を交わすうちに、後輩だとわかったのである。
その女子学生は、「とてもいい高校で、先生達も熱心で素晴らしくて、お陰様で私はこの大学に入れたし...」と、ニコニコと屈託がなかった。屈託がないから悩みもなく、実に楽しい学生生活を満喫しているようだった。
客観的に見れば、私の方が年齢も立場も(学識も)上のはずなのに、なぜかその学生の方が(いいわねぇ)と、羨ましく感ぜられてならなかった。結婚して、きっといい人生が送れるだろう、とも。
やはり、運動神経の有無は、人生を左右するものだと痛感する。
PS2:一応、中学では軟庭部、高校では水泳部に所属しており、「帰宅部」とは無縁だった。だが、それも父から厳命されて入ったものであり、もっぱら体力作りと人間関係を学ぶ機会と捉えていた。中学の時は、いつも応援と玉拾いに回っていて、素振りと空振りが私の専門だった。その延長で、いつでもどこでも他の人の良い点ばかり目について、自分のことが客観視できない癖がある。
運動神経が良ければ、とにかく格好いい。人生の捉え方、世の中の見え方が全然違うだろう。誰とでも自信を持って、スポーツを伸び伸びと楽しむことができる。それに、気と血の巡りが良くなり、頭の回転も良くなる。健康にもプラスになることは、間違いない。
この「格差」は、人生上、非常に大きいということを、齢半世紀以上も経つと、つくづく実感する。