ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

示された解答に沿った人生?

近現代のロシア史を、今ここで数の限られたパピ先生の邦訳書計4冊で復習し直し(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120131)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140918)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140919)、再度詳しく新たに学んでおくことは、今のイスラーム復興ならぬイスラーム国現象を理解する上でも、そしてまた、私の本来のマレーシアのテーマの枠組みを補強するためにも、重要だと考えている。つまるところ、どちらも根本は、世界史を動員する思想の問題だからなのだ。そのヒントが、既にロシア史の中に萌芽している。
そして、そのイデオロギーの危険性を肌身で感じながら育ったパイピシュ先生が、イスラーム主義をこっぴどく論難して回っているのも、知識人としての責任感と強い使命感に基づく。
私が自分のテーマを脇に置いて、焦りながらも訳文作成に専念してきたのは、親子二代の知的事業の重要性と今日性に遅ればせながらも気づいたからなのだ。
まだ、気づかずに暢気なことを発言している人達が、日本はおろか、アメリカにも多いのだけれども....。
これまで私がマレーシアに関してやってきたことは、それを補強し、証拠づける具体的な資料集めだった。なんせ、証拠を挙げなければ、一言で結論だけ言っても、証明にもならないし、説得力もない。それこそ、わかっていない人から「それがどうしたんですか?」と冷たく言い放たれて終わってしまう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101125)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131002)。
だからこそ、「こんなもの、全部不要です」と言ってのけた某教授は、実はその師がアメリカの左翼系だったということもあって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121113)、やはりダメだと今では断言できる。
なぜダメなのかがわかる人は、どのぐらい日本にいらっしゃるかしら?
実はさすがに池内恵氏が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140613)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140701)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140718)、それを仄めかすような、近いことを別の表現で書いていらっしゃるので、以下に部分引用を。

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-189.html
(前略)
アル=カーイダなどのイスラーム主義過激派は、しばしば「アメリカが作った」「欧米の植民地支配の遺産が云々」と言われるのですが、普通に考えたら、「ソ連アフガニスタンに侵攻しなければこんなことは起きていない」のです。当たり前のことなのですが、このことはほとんど言われません。
このあたり、冷戦思考で東側陣営あるいは反西側陣営に立つ人たち(欧米側とロシア側の双方)が、都合よく忘れてしまっています。まあ、アメリカを批判しているとカッコいいからね。

「世間でよく言われていること」が正しいわけではない。
(後略)

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-188.html
(前略)
どのような現象についての研究かというと、タイトルにあるように「イスラーム教による動員と組織化」です。

私の研究の原点にある、私が感じ取った興味深い現象とは、「イスラーム」という名を冠した政治・社会運動が、明確なイデオロギー書などもなく、指導者もおらず、組織もないのに、なぜ(時として)出来上がってしまうのか、ということ。

時として、というのは、いつも常に必ずどこでも「イスラーム」を冠した運動・組織が生じるわけではないからです。この点を加味すると、どのような条件において出現するのか、という環境条件をめぐる問題意識も派生してきます。
(中略)
中心も、指導者も、組織もないのになぜ、どのように、(時として)「イスラーム」を軸に人々がある一つの方向に動員され、集団が形成されるのか。
(中略)

ここで一般向けに議論する際に思い切って提示しているのが、イスラーム教は「解答集」である、という説明の仕方です。

われわれにとってなじみのあるキリスト教や仏教のテキストは、信者あるいは人類に「解けない難問」を突き付けて悩ませるタイプのいわば「問題集」的な形式を取っている。

それに対して、イスラーム教の基本テキスト(コーランハディース)と、その解釈方法は、「解答集」的な形式になっている。問題を与えるのではなく、解答を先に与えてしまって、その解答をもとに、現実の世界で直面する問題も認識させる(だから常に問題に対して解答が見つかる)という形式なのです。
(中略)
非常に短期的・直接的な、政策的インプリケーションとしては、分かりやすく言ってしまえば、「個々人の自発性を刺激し、ある方向に方向づけた結果として現れる、中心組織なき、ヒエラルキーなき組織なので、対応がすごく難しい、少なくとも従来の軍事的・法執行的やり方では難しいですよ」ということになる。
(後略)

(部分引用終)
だから、塾通いをせっせとして受験戦争を勝ち抜いてきた「エリート」が、この種の思想に引っかかりやすいのだ。だから、上級学校に上がれば上がるほど、それに触れる領域や影響力が強くなるので、動員人口も増えるというわけだ。
だから、塾に通ったこともない私が、当惑しながらも現象を察知して遠ざかりたくなったのは、宜なるかな、でもある。
カニズムがわかれば、これほど単純な話もないのだが、現象としては重過ぎ、危険過ぎる。
だからこそ、研究しなければならないのだ。競争して自分だけが生き残ることを考えている場合じゃない。そういう発想こそが、動員に乗っかっているということなのだが....。