ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

選択の過ちが招いた敗戦

というわけで、終戦記念日ならぬ敗戦記念日http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080815)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100815)。敗戦とは、英米アングロサクソンに負けたのではなく、自国の判断ミスと選択の過ちが招いたものだ、ということ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140324)。
今の時代は、価値観の合う人同士、簡単にインターネットで連絡が取れるために、地球上で発生した何事も、すぐに自宅にいてもわかる仕組みになっている。だからこそ、ありとあらゆる事象から教訓を学び取り、物事をしっかりと考えて、よりよい判断を積み重ねていく自助努力が当然のこととされているのだ、と思う。
ユダヤ系の人々から学ぶことは、数限りなく多い。何だか、人類史の諸問題を代表として請け負っている感じさえする。しかも、すごいところは、何とか解決してモデルを提示しているということだ。非ユダヤ人の私にとっては、生き字引としての教訓を身代わりに与えてくださっているように思われる。もちろん、人によるが、傾聴に値すると毎度感じている。
さて、パイピシュ先生とのやり取りを続けてくると、年齢差や立場の違いを超えて、アメリカ人らしい気さくさというのか、大らかさというのか、本当に「友達」みたいな交流に近づきつつあることを実感する(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)。
例えば昨晩のやり取りでもそうだった。「アメリカの弱さ」は、イスラミスト脅威を何度訴えても、次から次へと言い訳を考えて責任逃れをしようとすることだ、と書いてあったのだ。確かに私も初めの頃は、パイピシュ先生が、ちょっと神経質過ぎるのでは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120424)、とか、人の言動に過剰反応しているのでは、と感じていたことがあったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130911)、いろいろと関係書籍や映像などで学びながら訳文を続けていくうちに、そうではなく、大事な警告を人よりも一足先に発しているのだ、と納得がいくようになってきた。そのことを書き添えると、「日本は大きな問題を回避してきた」とお褒めの言葉を。ただし、毎度毎度、パイピシュ先生が日本のことで心配されているのが、人口の急激な減少(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130927)。
このことでは、私は言いたいことがいろいろある。実は昨年秋にも、この件で「欧州や日本が少子化なのは、いわば当然の流れ」だと現状を認めた上で、「健全な誇り、自己への自信、将来に対する希望があれば、人口は自然に増えるでしょう」と、一応はお返事を出した。そうでもしなければ、何だか戦時中の「産めよ増やせよ」のかけ声の二の舞になってしまいそうだったからだ。
振り返ってみると、戦後、価値観が急激に変わってしまったので、家族関係が突如、個人主義的というより自分勝手になってしまい、過去の伝統に基づく知恵を無視するか、否定する大きな勢力があったことを第一に思う。もちろん、因習にとらわれた抑圧的で狭い考えを打破して「解放」され、自由に伸び伸びと人生を謳歌できるようになった人々も多いことであろうし、決してそれそのものを否定しているのではない。そうではなく、一種の反動であろうか、行き過ぎた形式的な男女平等の掛け声が、大学やメディアなどで席捲していた。また、私の世代は男女雇用機会均等法に当たり、先生方もどのように勉強熱心な女子学生を扱ったら良いのか経験不足でわからないままに、無理矢理に脅しをかけて混乱させてきた面があったのではないか、と思う。その逆に、いきなり家事育児分担を男性に要求したり、昨今の「女性枠」待遇によって、実は下駄を履かせてもらっているのに、背後の事情に配慮の行き届かない女性達も目立つようになってきた。
だからといって、「女には教育は要らない」とは全く思わない。能力と本人の意志があれば、得意な方面でどんどんチャンスは与えられるべきだと思う。その方が、第一に視野が広がり、さまざまな体験が可能になり、物事を考える際の選択肢も複合的になって、何が起こるかわからない人生にあって、自己の依り所をいろいろと備えるからだ。それに、古い時代でも、開明的な家庭は女子教育の大切さを身を以て実践していたことを思い出す。
しかし、均等法世代の頃の混乱の深刻さは、今でさえ、安倍内閣の女性の地位向上と少子化対策の矛盾が同時進行しているところからもうかがえる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)。一人一人の責任という以上に、社会全体の流れや方向性が、どこか自然の成り行きに反していたのではないか、と思うのだ。
例えば、正規・不正規(パート)枠に関わらず、専門職として働く女性の場合と、単純労働で代わりのきく働き方をする女性とを、同じ「働く女性」カテゴリーで平等に地馴らししようとするから、おかしな議論になっている。また、高度専門職の女性が、結婚の時期や相手探しや子育てと職業の両立に悩まされるのは、考えなくてもわかることであるのに、その対策もないままに、一様に社会における男女平等を声高に謳っていたのではないか。
「結婚しなくても、仕事を持っていれば、女性だって自立して一人で生きていける」と、二十代の頃にはよく聞いた。結婚するというと、あたかも「自立」していないかのように見下す人さえ、珍しくなかった。そもそも、この発想のおかしさは、「結婚=永久就職」すなわち「食べさせてもらうための結婚」観に基づくからである。しかし、女性の「自立」が仕事にあるとするならば、「自立」していない人が結婚して子どもを産むという結論になってしまう。その結果、時流にのって頑張って仕事で「自立」を果たした女性の中から、「自分はキャリアがあるから、普通の男性には敷居が高過ぎるのよね」などと言い出す独身貴族も出現した。
そして、とても言いにくいことではあるが、事の深刻さを最も痛感している本人以上に、親の責任も問われるべきかもしれない。子どもを産んだからといって「親の地位」に甘え過ぎている人が周囲にいて非常に困るのだが、自分の子には何を言っても許されるとばかりに、非常識で変なことばかり言ったりしたりして、脅しをかけたり、人生行路の邪魔をしたりしてきた例がないわけでもない。それが、周囲および将来にどのような禍根を残すかさえ、思い及んでいないらしいのだ。
その点で、明治時代の人達は、階層差や地域差や身分差などがはっきりしていた分、分を弁えて気心がしっかりしていたと改めて思う。富国強兵、立身出世のスローガンは、今振り返ると実に意義深い。