ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

基底に日本があるということ

少し脱線してしまったが、4月9日のカーネギーホールでの内田光子さんの演奏会の補足を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)。
彼女の過去の映像のごく一部は、こちらをご参照のこと(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Uchida)。また、過去ブログで言及されている内田光子さんについては、(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090828)をどうぞ。
今から振り返っても、あのピアノ曲を聞く度に、ベージュで品よくまとめられたホール内部の雰囲気やらしみじみとした深い感動が甦ってくる。非常によい選択の曲目だった。一つには、当たり前だが、二曲とも陳腐で通俗的な曲ではなかったこと。従って、弾きこなすにも聴く側の準備としても、一筋縄ではいかなかったこと。二つめには、いかにも懐かしい情景と心象風景が折り重なってくるような沁み込む解釈だったこと、私にとっては、一生忘れられないメロディーとして心に焼き付けられたこと、が挙げられる。
相変わらず、上質なのだろうパンタロンに、長めの薄い天女のような上着を無造作に羽織ったような衣装で出て来られた。はにかんだような表情で、ぴょこりと深く体を折り曲げるようなお辞儀の後、颯爽と鍵盤に向かい、繊細に情感たっぷりに弾き始められた。二曲目を始める前に上着を脱いで気合いを入れるパフォーマンスを見せたところ、客席から思わず微笑がこぼれた。愛嬌のあるお茶目なピアニストだ。
咳をする人や、パンフレットを落としたりする音は、残念ながら、日本のホールと似ていた。また、終了後に座席や床にパンフレットが置かれたままだったのも目撃した。しかし、最も大きな違いは、拍手のタイミング。日本だと、どうしても、間合いを取らずに一秒か二秒先に拍手をしてしまうことが多い。まだ余韻が目に見えない音に残って空間を漂っているというのに、また、演奏者もそのような表情をされているのに、勝手にブラボーやら拍手を始めてしまう人がいるのだ。これは、曲全体がわかっていないということを意味し、全てが台無し。ところが、さすがにここでは、そういうことはなかった。きちんと納得のいく拍手の始まりだった。つまり、客層としては一定の傾向が明らかだったことが明白である。
最後に、洗練された熱いスタンディング・オベーションが前面の座席を中心に続き、彼女が非常に敬意をもって愛されているらしいことも感じられた。アンコールはなく、そこに、品のよさと厳しいプロフェッショナリズムを感じた。
彼女のインタビューを聞いていると、日本国内よりも欧米での方が遙かに人気が高く、深い哲学的な演奏解釈に対する評価も欧米人からの方が高いのに、必ず根底に「日本」をさりげなく覗かせていることがわかる。彼女の新旧取り合わせた複雑で高度な演奏曲目の幅は、どこから来ているかと言えば、西洋の単なる後発組模倣ではなく、「日本」が基底にあったからこそだ、とはっきりおっしゃっている。そこが非常に興味深く、ありがたく、勇気づけられる面だ。
つまるところ、彼女の人気は、ウィーン育ちの英国在住者だから受け入れられているのではなく、彼女の西洋音楽に対する受容のあり方と咀嚼のしかたが、生粋の西洋人にはまねしたくてもできない、独自かつ天来の素養から来るものなのだろう。それも、日本を捨てたのではなく、日本があってこその演奏だという点に、あの品よく熱のこもった長い拍手へとつながっていくものがあるのだろう。
だからこそ、私も日本出身者だということで、あの席に堂々と座って、曲の流れに安心して身を任せることができたのだ。感謝以外の何物でもない。