ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

北海道の概略史に触れる (3)

おととい、昨日の続きです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130512)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130513)。
これを読むと、これまで私の北海道イメージが、いかに偏っていたかを思わされます。「北海道=札幌農学校」「クラーク博士=『少年よ、大志を抱け』」「新渡戸稲造」「内村鑑三」「キリスト教」などは、確かに重要なポイントではありますが、その背景や全体としての状況が抜け落ちたままで、いわば偉い人々の一部のみに光と焦点を当てて、ことさらに拡大誇示して伝えられてきたような印象を覚えるからです。クラーク博士や新渡戸稲造氏や内村鑑三氏などが、骨を埋めるまで北海道の地となっていたのかと言えば、実はそれほど長期間滞在したわけでもなさそうだし、本当は、それ以外の日本人の方が実質面で北海道に遙かに多大な貢献や発明をしてきたのに、上記の人々を自慢げに語る人達は、なぜかそこを明らかに無視してきたように、今これを引用しながら思います。

http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/01.html

第五章 稲作の展開


現在、北海道の米の生産量は作付面積とともに全国1位の座を獲得。


明治4年、開拓使が招聘したトーマス・アンチセルは石狩地方の調査に際して稲作の無理を説き、理由として「灌漑の用いるところの河水にして寒冷なれば穂を出すに至らざるなり」と報告。ケプロンクラーク博士も、北海道では稲作は無理であり、本州のような小規模農業技術では非効率なので、麦作を中心に家畜や器械力を使った大規模農業を提案し、食生活も米からパン、ミルクへと主張。彼らの提案どおり稲作は禁止。青森県とさほど気候条件の変わらぬ道南地方では幕末から米作り。札幌より北ではほとんど不可能。この常識に不屈の魂をもって挑んだのが米作りの名人・中山久蔵(なかやまきゅうぞう)。


明治4年、札幌郡広島村島松(現・北広島市島松)に入植した久蔵は、道南で栽培されていた地米「赤毛」と「白髭」を持ち帰り、10aの水田。気温の下がる夜には徹夜をして風呂水を入れ替えた。この結果、明治6年、345kgという高収益。諦めることなく血の滲むような努力で水田を拡大し続けた。


同10年の第一回内国博覧会に自作の米を出品。大久保利通内務卿より褒章をもらう。
試作の末、彼が品種改良した「石狩赤毛」100俵を開拓者に無償で配り、農村を訪ね歩いて稲作の指導。


明治25年、第4代北海道長官として赴任した北垣国道は、東京農業大学教授兼農商務省技師で当時の米作りの権威であった酒匂常明(さこうつねあき)を道庁財務部長として招く。酒匂は農学士・農芸化学士。ドイツ留学で土地改良を学び、帰国後「土地整理論(ほ場整備)」を書くなど、最も先進的な学者。彼は、稲作が北海道の開拓を進展させると考え、道庁の施策として米作りを奨励。米つくりの名人・中山久蔵を道庁の嘱託として各地の営農指導に。


直播栽培の普及。石狩、空知、上川など水田規模の大きいところでは急速に普及し、稲作普及の大きな要因。
明治25年には全道で2,400haであった水田面積は、同36年には16,200haにまで拡大。

第六章 特殊土壌


北海道の耕地の多くは作物の生育には不向きな特殊土壌(泥炭土、重粘土、火山性土等)。特殊土壌を避ける形で水田が広がっていった。
肥料をやっても作物が育たない不良地が多くあり、開拓の重労働に加え、特殊土壌との闘いが待っていた。わが国の土性調査の基礎づくりに多大な貢献。


泥炭地


泥炭とは、沼沢地や湖沼などの湿原植物の繁茂する湿地に集積した分解不完全な植物遺体の堆積物であり、ピートとよばれる。湿地帯の植物などは、枯れても酸素不足となった条件下では微生物などの活動が抑制されるため、分解が完全には進まず、まだ植物の組織が肉眼で識別できる程度に腐朽した褐色の植物遺体が集積。要するに枯れた植物たちがたまっていって、分解されずに炭化してできたところ。スポンジのようにフカフカで、水をたっぷり含んでいるが、乾くと沈下。人の重みで地面がブヨブヨとゆれ、時に腰までぬかるむ。急激に排水すると泥炭の分解を促進し、多量の窒素が無機化されるので窒素過剰の害の危険がある。


乾いた泥炭層へ火が入ると、容易には消えず、土の層そのものが燃える。一度燃えた土は雨が降っても浸透せず、風が吹けば「パフパフと飛んでしまう畑」になった。


重粘土層


重粘土は「粘土含量が高く、粘質でしかも組織の堅密な土壌をいい、透水性は著しく不良で降水量が多いと停滞水を生じて過湿状態となる反面、乾燥時には干ばつを招きやすく、土壌が強く固結して耕耘が困難になる。砂質または礫質土は粘土および腐植含量に乏しく、粒子のあらい土壌で、通水性、透水性が過度で、夏季には干ばつを受けやすい。有機物の分解消耗が著しく、土壌自体の養分が少ないほか肥料成分の吸着保持力が弱い。一般的な対応策としては土壌反応を適正にし、有機物施用による微量要素の補給を行う。」(平凡社『世界大百科事典』)


開高健の『ロビンソンの末裔』の一節。「・・・土でいちばん負けるのは重粘土だね。これには負ける。酸性だとかアルカリ性だとかちゅう土はいいかげんひどくても、客土するね、暗渠切るね、金肥撒く。そうすりゃなんとか息を吹きかえすちゅうことがあるけど、この重粘土って奴ァ、もう、どだい、作物の根が入らんのじゃけれ、またたとい根が入ったとしても息ができんのじゃけれ。」


火山灰地


「不良火山灰土とはシラス、ボラ、アカホヤなど火山性の特殊土壌のほか、火山灰土壌の作物生産に対する一般的な不良性質をさす場合がある。火山灰土壌の不良性は、主としてアロフェンとよばれる非晶質の粘土鉱物と、特異な腐植とから構成されているためである。アロフェン中には陰性コロイドと結合していない遊離のアルミニウムが多量存在し、植物根に直接害を与えるほか、有効態リン酸と塩基が著しく欠乏した酸性土壌となっていることが多い。」(平凡社『世界大百科事典』)。


特殊土壌の改良は早くから実施。農事試験場が泥炭地の改良試験に本格的に取り組むようになったのは大正9年から。初期の試験は主として明渠によるもので、その深さや間隔と作物収量との関係を調べて施工法を決めようというもの。作物は燕麦、小豆、馬鈴薯などが供試。明渠によるほ場排水は、潰れ地が多い、農作業の障害になるなどの理由から一般にはあまり普及せず。戦後の泥炭地開拓ではこの方法が補助対象とされ、広く実施。


暗渠排水に関する試験は、昭和8〜9年に粗朶、木管、木桶、泥炭投げ込み等の資材比較試験他。
不良土壌の改良において、排水と並んで有効な方法として客土。すでに元禄11年(1698)に厚岸で客土が行なわれたという記録も。大正8年には美唄に泥炭地試験地を開設。北海道開拓の歴史は、土壌改良の歴史。

第七章 移民の進展と大農場の形成


明治の北海道開拓には、士族授産の目的も。戊辰戦争で敗戦となった東北諸藩は賊軍として扱われたため、会津藩下北半島への減封に代表されるように、新政府は厳しい処分。


明治2年、伊達藩では藩主自ら移住地(現在の伊達市)を視察し、翌3年に家臣団とその家族220名が移住。支藩の白石藩もこれに続いて、現在の札幌市白石区に移住。


また、廃藩置県(明治4年)、地租改正(同6年)によって財政的基盤を失った旧藩では士族の救済のために多くの藩が北海道への移住。石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路、明治8年には尾張藩の徳川氏が八雲町に入植会津士族(余市)、稲田士族(静内)などに続いて前田藩・毛利藩なども士族授産による大農場の建設。


同19年、北海道庁の設置とともに本格的な開発計画が推し進められると、函館の開進社、帯広の晩成社、札幌の開成社、江別野幌の北越植民社、浦河の赤心社といった会社・結社組織による移住。東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航


明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げ。公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立。蜂須賀農業となり、耕作面積は4000haを誇る。蜂須賀氏は小作経営に変更する一方、私費を投じて、かんがい用水工事を行い、雨竜開拓の基礎を築く。


明治30年の「北海道国有未開地処分法」は、本州の資本家に100万ha以上の大面積を無償で提供するというもの。「開墾もしくは植樹に供せんとする土地は無償にて貸付し、全部成功の後、無償にて付与」するもので、一人に対する面積も開墾用としては500町歩、牧畜用には833町歩、植樹には666町歩。多分に投機目的で貸付を受けたものも多く、処分面積の大きさの割には未開地を残していた。北海道の不在巨大地主制を決定づける。多くの小作争議を生む。


小林多喜二の小説『不在地主』。多くの不在地主が無償で得た土地を小作人に売り逃げする中で、作家でありキリスト教徒であった有島武郎は父から譲り受けた有島農場(ニセコ町)を無料で開放