ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

北海道の概略史に触れる (4)

今日は5.15事件を想起する日。このところの日本の政治家の言動も顧みて、よく歴史を学ばなければと思います。
さて、今日は「北海道の概略史」の最終日です(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130514)。

http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/01.html


第八章 明治型開発の終焉


明治期における北海道開発の特徴は、資源略奪型の開発。水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による荒廃が増えた肥料もやらない略奪的農業により、地力の衰えが農地としての維持が困難に。畑は有機物の分解が早く、栄養分は作物に吸収される一方で、雨水とともに流亡しやすい傾向。地道な土づくりを怠って収穫を続ければ、地力が減退し、やがて不毛の地に。略奪的な土地利用は、古代文明衰退における大きな要因のひとつ。こうした事態を避けるために、外国の畑作地帯では古くからそれぞれの国に応じた土地利用、農法が発達。日本では畑作を主体とした大規模な土地利用型農業は未熟で、(耕地が狭いこともあって)畜力の利用すら未発達。土地利用とは、人間と土地(環境)との相互関係性。歳月を経て、再び土地(環境)から強烈なしっぺ返しを受ける。また、開拓事業によって森林の伐採、原野の開墾が進むと、河川の決壊が増えた。移民は大正9年をピークとして減少。


明治33年に樹立された「北海道10年計画」は日露戦争で空中分解。明治43年からの第1期拓殖計画(10年計画)では、当初の予算の3倍という巨額の費用を投入。産業施設へと重点。大正半ばから移民は減少して反対に北海道を離れる者が増加。日露戦争南樺太への移住が目立つ。続く昭和2年からの第2期拓殖計画(20年計画)では、農耕地158万haの開墾、移民197万人を目指して人口600万人を目標としますが、前半は恐慌と冷害凶作の連続、後半は戦争にまきこまれて空中分解。


第2次世界大戦敗戦により、樺太、千島、満州からの引揚者、さらに東京大空襲の罹災者たちが、北海道に移住。集団帰農者と呼ばれる、昭和20年7月から11月までに約1万7千人が入植。土地の条件も悪く、農業経験の乏しさ、携行資金の少なさもあって定着率も悪かった


昭和25年に北海道開発法が制定され、北海道開発庁が発足。総合開発の対象として北海道が再度見直される。日本再生のため、北海道開発は国が行う。翌年、北海道開発局が設置。昭和27年からの北海道開発計画第1次5カ年計画。続いて昭和33年からの第2次5ヵ年計画を実施。開拓農政は一般農政の中に移行していく。


北海道開拓の歴史:明治維新前後の北海道人口は、アイヌが2万人前後、和人が10万人前後と推定。現在では人口562万人余り(平成18年)。明治維新後の約半世紀でその骨格が出来上がった。開拓者の血の滲むような格闘こそが現在の北海道を築いた。


不毛の原野をわずか130年の短期間で一国にも匹敵する素晴らしい地域に造りあげたことは、世界的にも例がない。日本が2千年かかつて創りあげてきた農業の歴史を、わずか百年そこそこで駆け抜けた。 圧倒的な自然の営み、あらゆる辛酸を乗り越えてきた開拓者魂、そして、農業土木というわが国独自の技術体系。それらの見事な結実が、生産量日本一の水田とともに世界に誇るべきこの美しい北海道の田園風景を生んだ。

(引用終)