ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

北海道の概略史に触れる (2)

ほんの10日前には、とても5月とは思えないような1月か2月のような寒さ(摂氏5度か6度)を北海道で過ごしていたのに、今日の関西は、まるで初夏直前の暑さ(摂氏22度)だったとか。日本は本当に、さまざまな気候が同居している土地柄なのですね。
それに、初めて訪れた北海道の歴史を簡単に学んでみて、わかっていたつもりでも、本州太平洋側の都市部を中心とした知識と経験で物を見ていたんだな、と改めて反省。今後はますます、国内のこともじっくりと勉強しなければ、と痛感します。
昨日の続きです。
http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/01.html

第二章 明治維新北海道開拓使


1868年、王政復古の号令とともに新政府が樹立。明治維新榎本武揚など旧幕臣五稜郭に立て籠もり最後の抵抗。翌年、五稜郭の陥落をもって戊辰戦争終結し、名実ともに明治政府が誕生。蝦夷の地も北海道と改め、省と同格の中央官庁である北海道開拓使を設置


明治維新後、国策は一変。失業した士族の救済、ロシアの侵攻に備えた屯田兵の創設、欧米列強に対抗するため富国強兵。石炭、木材、硫黄などの天然資源は、日本近代化の大きな原動力。北海道開拓のもっとも主要な動機は、日本近代化のための資源開発


明治に始まる開拓使の設置は、北海道を維新後の国力増強に活用。士族に授産することを目的。札幌の開発、道路・港湾・鉄道の整備、鉱山開発、官営工場の建設、札幌農学校の設置。集団移住者と屯田兵による開拓推進。中央主導型の開発とインフラ整備が北海道農業の骨格。


函館が中心地だったが開拓使は札幌に。明治4年、黒田清隆が10年間1000万円をもって総額とするという大規模予算計画「開拓使10年計画」を決定。


黒田は開拓使長官になると、39の各種官営工場の設立、幌内炭山の開発、石炭輸送のため幌内一小棒間の鉄道を敷設。アメリカの農務局長ケプロンら顧問を招聘し、西洋式農業の移入も。


クラーク博士を招いて設立した札幌農学校や官園(東京、函館、札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり、新道の建設や札幌、幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備。ビール、製糖、製麻などの農産加工工場や木工、鉄工、製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業


政府募集の移民を送り込んで定住させる。移民に米、費用、農具などを与えるという政府の補助の効果はあがらず、明治5年には募集をやめ、既に定着した移民への援助に切り替え。明治6年、政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始。


北海道開拓使明治15年に廃止され、函館県・札幌県・根室県の3県を設置。この3県時代は開拓不審の時代。明治18年ハーバード大学で法律を学んだ大書記官・金子堅太郎によって詳細な北海道視察。その建白書に基づいて翌19年、3県を廃止して北海道庁が誕生。

第三章 屯田兵


屯田兵とは、兵士を遠隔地へ派遣し、平常は農業を営むかたわら軍事訓練を行い、いざ戦争が始まったときには軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵。中国では漢の時代から明代まで盛んに行われた制度。


新政府で北海道に屯田兵の設置を主張したのは西郷隆盛開拓使長官・黒田清隆が建議し、明治7年に制度が制定され、翌8年、札幌郊外の琴似兵村で兵屋200戸を建築、宮城・青森・酒田3県および北海道内からの志願者193戸、965人が移住したのがはじまり。背景は士族の失業対策。士族に「兵」という誇りを持たせながら開拓という自活の道を開かせよう。最初の屯田兵は士族のみを対象。平民出身の屯田兵が開拓の中心。明治37年に制度が廃止されるまで、各地で37兵村、7,337戸、39,911人が入植し74,755haの開発。


通常、1兵村は200〜240戸からなり、1戸当たり5町歩の土地が支給され、練兵場・官舎・学校など公共施設を囲んで兵屋が規則的に配列。 生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援、また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねていた。


屯田兵は、西南戦争日清戦争日露戦争に参戦。西南戦争では、下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったため、戊辰戦争の敵だった薩摩士族を相手とするこの戦いには奮い立つ。しかし、上官や将校は黒田清隆を中心とする薩摩閥が占めていたため戦意が乏しかった。戦後の論功行賞では上官であった薩摩閥が優遇され、奮戦した下士兵卒の東北出身者には冷たかったため1人の将校が抗議の切腹


屯田兵制度で特筆されるべきは、土地利用、なかんずく牧畜と大規模営農に適したアメリカ型の広大かつ整然とした区画。例えば、上川地方の屯田兵村では1戸当たり30間×150間(54×270m)の区画で10戸ごとに道路を設けて格子状にしており、道路の両側に宅地、その背後に耕地という開拓集落特有の形態。屯田兵村の形態を基礎に明治29年、全道を統一的に規定する植民区画が施行。幅10間(18m)の基線道路とそれに直交する300間(540m)間隔の道路。300〜500戸を1村として共同施設を構えるという組織的な配置。


都市にまで適用。現在、北海道は食糧基地としての地位を揺るぎないもの。その基盤として、こうした区画割に基づく大規模な農業経営がある。

第四章 開拓の風景


開拓移民が5町歩を開墾して、自作農として独立するためには3、4年かかるのが普通。苦労は想像を絶するもの


移民は、まず郷里から入植地までの旅費と初年度の生活費を準備。入植地に着くと着手小屋の建設費用。生活用品や家具代。さらに、開墾・耕作の道具、灯火用石油、薬代その他、渡航費を除いても最低200円程度の移住資金。



開墾は、原生林との格闘。巨木の原生林と鉄の網のように密生する熊笹。それをマサカリとノコギリ、鍬だけで片付ける。播種適期の遅れはそのまま食糧を失うことになるので、家族総出で激しい格闘。初年度で1町歩も開墾できれば上等。収穫を終えれば、自給用食糧を残してもいくらか収入が得られるが、薪炭の製造や出稼ぎ、山の労働などで副収入を得ながら再び苦しい開墾を続ける。


5町歩の開墾に成功して、晴れて土地の付与を受けるのに、普通は4、5年。開墾中に洪水や冷害に見まわれ、土地を捨てて流亡する例も少なくなかった。


「開墾は、それはもう厳しいものでした。(中略)拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっていまいます。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」


「家といっても、小さな拝小屋でした。板、柾、釘等何もないので、やちだもの木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこや松ははねるので使いませんでした。何にしろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしいていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」


「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました」(以上斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より)。


昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録。昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられた。明治の開拓民の厳しさはおそらく今の私たちの想像をはるかに超えるものであった。