ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

本のダイジェスト版(1)

メーリングリストから。なかなか読めない分野の本のダイジェスト版。このやり方が良いかどうかは別として、自分の不足を少しでも補うために。

加来耕三不敗の宰相、大久保利通


大久保利通の印象を隻語で述べれば、「凄然」の一語に尽きる。大久保はまさに凄然と明治維新を成し遂げ、つづいて近代国家日本の基礎を、作り上げた。



・大久保が内務卿の時代は、いまだ幕末動乱の殺伐とした風が抜けず、志士あがりや豪傑を気取る府県の知事・県令たちは、板垣退助内務大臣時代とは比較にならない強者揃いだった。にもかかわらず、大久保が地方官会議の会場に入るや、一斉に私語はやみ、内務卿を揶揄するどころかどの眼光をさけるべく、強者たちが申し合わせたように俯いた


・大久保は何事においても慎重であり、決して博奕を好まなかった。つねに最善をつくしながら次善の策を準備し、それがだめならさらにその次善を探求するといった着実さだった。一度手がけたことを途中で放棄するようなことは全くなかった


・大久保のバックボーンとなったのは、薩摩藩独自の教育である郷中制度であった。これは武勇を尊ぶ薩摩藩が、泰平の世になって「武」が衰えることを憂い、恐れ、藩を挙げて熱中した少年教育の制度であり、地域(郷中)をひとつの単位として、藩士の子弟に自治組織をつくらせ、相互に切磋琢磨させた。文武の指導はもちろんであるが、むしろ「心の爽やかさ」を高め合うことに目的が絞られた。


・言い換えれば、潔さと勇敢さ、それに弱者へのいたわりを身をもって知らしめることが、郷中教育の目的で、薩摩藩では、武士の学問・武芸以上に尊ばれた。


・大久保も「郷中」のなかでもまれ、組織というものの仕組み、強さと機動性、集団心理などを体得し、後年、組織運営の名人として、絶妙の冴えをみせた。「郷中」のリーダーシップをとることで、大久保はこの組織力を背景に、青年期にはいると薩摩藩の実務畑官吏となり、短期間に藩官僚の階段を駆け上がって、さらに日本という歴史の大舞台を登り詰めていく。


郷中での学問は、『四書』『五経』の素読、暗唱などであった。また、「伊呂波歌」「歴代歌」「虎狩物語」など、藩の選定した歌や物語を暗唱した。


・大久保は生涯、愚痴を言わなかった。愚痴は理非の分別をもたず、非建設的で無益である。彼は愚痴るかわりに考えた。「家族を守るために、実力を培い、藩内でのし上がる以外にない」栄達・出世をとげるためには、機会をとらえてそれに乗るための洞察力、行動力を磨かなければならなかった。大久保が逆境の中で、自らの立場を悟り、この苦境からはいあがろうと決意した時であったのが「陽明学」であった。



・大久保はやがて、朝廷、幕府、諸藩の虚々実々な駆け引きの渦中に身を置き、策謀の技術を実践的に学んだ。敵に勝つためには調査、観察、洞察が必要であり、それらを怠らずに分析してこそ、駆け引きにも負けないのだと知った。


・大久保はいくつかの書簡で、こう繰りかえしている。「組織を支えるのは人心であり、人心を納得させるのは当事者の公正な態度である」


戊辰戦争において、大久保は軍事に関して盟友の西郷隆盛を実質的な東征軍司令官として立てている。自らは、後方にあって地味な「兵站」業務を受け持った。


・新政府で事実上の宰相を務めるようになった大久保は、自ら行財政の知識や近代的実務に暗いという弱点を認識していた。さらなる未知の海外をも体験したいと意欲を示していた。どちらかといえば現実思考の大久保が海外視察使節団に加わったことは、42歳にしてみせた決断であった。


・やらせると決めたからには大久保は部下に全てを委ね、その責任を自らが負った。


徳川家康と大久保は、実によく似ていた。創業から守成への大転換を見事に乗り切った統率力、思考方法や決断の仕方、実行に至る手順の踏み方など。二人の常勝組織をつくるに当たっての人材登用も凄まじかった。大久保も家康を目標として、お手本としていた。

渡部昇一/岡崎久彦明治維新人物学:明治の教訓、日本の気骨


・連綿たる歴史と文明的土壌が維新の成功を導いた。


西郷隆盛を一言でいってしまえば、全く私心のない人だ。頭の中では天下国家のことしか考えていない。だけど、小さなことについてものすごく礼儀正しい。


勝海舟は剣道とともに禅の修行をしている。これは西郷との共通点でもある。禅が何に効いたかと言うと、度胸がつく。白刃の間を何度もくぐったけれど、全然びくともしなかった。


・勝という人は、実によくなんでも見えている人だった。見えていて、それに対して正確な措置をとっている。よくあれだけ物事を大きく見ることができたなと。


・勝は、理屈を言うんじゃなしに、問題があったらすぐに解決する。そうでなきゃいかん。何かあると、「考えさせてくれ」とか、「それは大事な問題であるから熟慮検討ののち・・・」なんて言わないで、「こうやって解決する」とスパッスパッと言える人間というのが、現代でも最高の人物だ。それができたのは、戦後では岸信介田中角栄ぐらいでしょう。


・大胆にして細心。一言でいえば、勝は超天才的な人で、加えて禅と剣道で腹ができていたということだ。


・明治の最高の頭脳である伊藤博文。伊藤の人物を推し量るときにまず言及したいのは、彼の書く文章のすべてが明治の最高の名文であるということ。論理の乱れがない。


・円転滑脱の柔軟さこそが伊藤の持ち味だった。


・驚異的な体力が伊藤の業績を生んだ。いつも4時間ぐらいしか寝なかった。彼はいつだれが会っても快活で機嫌がよかったというので、大変な体力だ。本当に病気をしなかった。明治天皇は、「伊藤の健康は病的だ」と評されたという。


陸奥宗光というのは本当に天才だと思う。陸奥の目標は不平等条約の改正と議会民主主義で、日清戦争はたまたまだったが、あのときの処理ぶりは天才と言うしかない。天才を使えるような政府、これが明治ですね。もうそれに尽きる。


・日本の明治維新が成功したのは、極端な近代化と極端な復古運動とが一緒になった。まさにその微妙なバランスにあったと思う。明治天皇はその両方をなされた。


・伝統史観というのは要するに教養主義のこと。戦前の高等教育までは教養主義の伝統が残っていた


アングロサクソンとの信頼関係確立が、日本の繁栄を決定づける

田村耕太郎君に、世界との戦い方を教えよう


・日本を変えるには、まず教育を変えるしかない。アメリカは簡単に衰退しないと思う。それは、「知のインフラ」が他国を圧倒しているからだ。


アメリカの強さの土台はリーダーシップ教育にあり。アメリカの大学の成績は就職に直結する。


アメリカ企業の経営陣が、アメリカの大学教育を受けた人材を評価しているポイントは、おそらく以下の3つ。

1.圧倒的な読書量。学生は、哲学、科学、歴史と幅広い分野にわたり、大量の本や資料をとにかく徹底的に読まされる
2.その読書量で得た豊富な知識を背景にした仮説検証訓練
3.リーダーシップ(自己と他者を管理する能力)


・ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)のある教授が私に向かって切り出した。

コウタロー、私は日本の問題の核心がわかった気がする。この国に来て、人々の優秀さや優しさ、団結力にすぐ気づいた。ただ、日本の停滞の理由は、リーダーシップがどこにもないことだ。どこにも問題の当事者がいない。すべてが他人事なんだ。政治家は官僚を悪者にする。官僚は政治家のせいにする。財界人は政治と役人が悪いという。『俺がやってやる。俺が変えるんだ』という人間がどこにもいない」


・インドの教育界のトップに君臨するのが、インド工科大学(IIT)。世界の理工系大学の中でナンバーワンだとされる。IITに落ちた者がMITやハーバードに行く、といわれている。


・インドの大学の経済学部は、かなり数学を重視している。基本的な経済数学と統計の知識を、すべて1年生の間に叩き込む。


・言いたいことを一気に言い切る英語力が必要な時代だ。私は世界最高のシンクタンクと言われる『ランド研究所』で日本人最初の研究員を務めた。ああいう場所にいると、いったん英語で詰まったり口ごもったりしたら、2度と話を切り出すチャンスはない。次は誰も目も合わせてくれない。


・大事なのは「一気に通じさせること」だ。インド訛りでもフランス訛りでも日本人のアクセントでもいい。言いたいことを言い切る能力があればいいのだ。


知性、見識、教養のすべてが発音に現れる。イフ外語学院の中野正夫氏は、こういう。「シリコンバレーで起業した私の教え子が、『国際会議では、発音がうまい奴がスターになれる。発音がうまいだけで華になれる』と言っています。公の場でこそ、発音は大事なのです」


アメリカ経済復活の根底には、アメリカの教育の強さがある。授業で求められるのは、記憶した答えを探すことではなく、答えの出し方、つまり「考え方のフレームワーク」を提示することである。

(引用終)