ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一見もっともらしいのだが...

ラジオのドイツ語講座で、ある女性講師が担当している番組は、聴いていてイライラさせられるというのか、やる気がそがれる感じがします。もちろん、かなり前に葉書で投書しましたが、放送が始まってしまうと、方針を途中で変えられないのか、それとも、単に少数意見として葬り去られてしまったのか、今でもイライラ番組が続いています。
講師の声そのものが、年齢の割につくったような声というのか、緊張してうわずっているのか、聞きにくいタイプです。普通、素人でも、知性を感じる声や話し方というものがあると思うのですが、どうもそこからは外れているような....。
それは仕方のないこととしても、少なくとも、途中で子どもの変な叫び声のようなものを入れないで欲しいと思うのです。意味がわかりませんし、集中力が途切れてしまいます。
昔の放送は、ある程度の読解文も含んでいて、投書欄もまじめな印象を与え、落ち着いていました。それを続ければ、何とか力がつきそうだという信頼感がありました。
今は、講師が余計なことを話し過ぎたり、どうでもいい断片知識をクイズにしてみたり、練習の後で「お疲れさまでした」みたいに媚びています。
すぐに使える会話というものは、賞味期限も切れるのが早く、時間の無駄だと思います。
外国語に対する抵抗感を減らすという目的が、あまりにも前面に出過ぎて、知性が後退しているような気がしてなりません。

それに関連して、話はやや飛びますが、最近、「すべての人に高等教育を」という主張を耳にしました。(あれ?)と耳を疑いましたが、確かにそう言っているのです。
「すべての人に義務教育を」というならばわかります。でも、「高等教育」と言えば、大学以上を指すのが普通で、それは入試という選抜によって、向き不向きをふるい分け、専門分野に即した人材を育成するということが狙いじゃなかったのではありませんか?
もしも、「すべての人に高等教育を」となれば、就職段階でパイの奪い合いになり、早々と人生に見切りをつける若者が増えないとも限りません。
こういう発想は、いったいどこから生じるのでしょうか。昔の入試競争が厳しかった頃の方が、いわゆる「格差」があったかもしれませんが、一方で社会そのものに、一定の安定があったようにも思うのです。それは、人生の一関門として、早くから覚悟を決めて挑戦する、うまくいかなければ、それなりに別の道を探す、というような方向性と潔さが社会の中に存在したからではないかとも思います。
「差別はいけない」みたいな主張は、一見、もっともらしいのですが、これほど冷酷な思想もないのではないかと、この頃考えています。