シェイクスピアの作品
岩波文庫の中古版で『ヴェニスの商人』シェイクスピア(作)中野好夫(訳)赤204-3(1939/1973/2000年 第77刷)が昨日、届きました(“The Merchant of Venice”1596-97, William Shakespeare)。
シェイクスピアが今でも欧米知識人の教養だと、あるメーリングリストで何度か読んだのですが、この作品が、ある種の反ユダヤ人感情で彩られている要注意文献だということを、どのぐらいご承知なのでしょうか。シェイクスピアは、私の世代の英文学専攻ならば必読書の一つでしたし、中学あたりの国語教科書で「リア王」が掲載されていましたが、今ではどうなんでしょう?それにしても、「教養」とは何なのか、考えさせられる作品です。
それはともかくとして、昭和48年に書かれた中野好夫氏による「改版にあたって」(pp.4-5)には、さすが昨今ではめったに目にできないような、深く謙虚な一文があります。
・訳者は特に訳者自身の翻訳理論などというものは持たぬが、ただ翻訳というのは、個々の語句よりも、まず原作の精神、雰囲気とでもいったものを、そこは訳者の全責任的解釈の下でなされねばならぬと信じている。この新版においても、もしその点で訳者の理解が見当ちがいだったり、独りよがりだったりしたのでは、いかに語学的には正確でも、全体としては失敗といわねばならぬ。成功か失敗かは、訳者自身のいうかぎりでないが、それだけの責任と危険とは負うつもりである。顧みて、微力の限りはつくしたものの、われながら遺憾はつきぬ。とりわけ、訳者をほとんど絶望させたのは、誰しもいうことだが、原作の詩の移植である。
文学作品の翻訳は、相当に高度な技術と深い理解が必要とされる分野ですが、今日、改めて読んでみて、私自身も心すべきと肝に銘じました。
とはいえ、シェイクスピアの翻訳と私の翻訳の大きな相違は、今、生きていらっしゃる著者に、メールで直接コミュニケーションがとれる条件が備わっていることです。「わからないことがあったら、いつでも僕に聞いてね」と、最初からダニエル・パイプス先生に言われていますから。でも、これまで私は、ほとんど、翻訳そのものについて問いを発したことはありません。そうではなく、著者としての先生の生い立ちや今の人間関係などを知ることに努めている節があります。
昨晩も、先生からメールがすぐに届きました。どうやら、翻訳の提出が遅れている分、何をしているのだろうかと、フェイスブックに掲載してある、私の英語と日本語のブログやツィッターを調べられたのでしょうか。「僕に関するあなたのリサーチを楽しんでいるよ」と書かれてしまいました。
リサーチだなんて!いえ、調べ事なんですけど....。ほらね?日本語だと、「リサーチ」と「調べ事」のニュアンスがかなり違うでしょう?だから、英語で読んだ時と、日本語に移す時には、文化上の時空間の距離ができるんです。そのために、勢い込んですぐに訳せたとしても、提出までにしばらく寝かせたいと思っています。
結局のところ、あれだけの文章を次々に書けるということは、相当の知識と思考が要求されるわけで、いつでも頭の中も心の中も、たくさんの経験や思想や感情や気持ちが、渦巻くように溢れかえっていらっしゃるんでしょうね。
声が小さくて控えめな人柄だと言われている割には、かなり自己主張が強いようにも見えますが、一つは、書き手として、強烈な個性がなければ、人々に広く訴える文章が作れないということ、もう一つは、差別や陰謀などという人類史の暗闇に人一倍敏感だということ、さらに、思うに任せなかった職業選択についても、一種の強い怒りみたいなものが根を張っているのだろうこと、こういう要因を私なりに推測しています。間違っているかもしれませんが。
だから、少しでも理解に努める人がいれば、ちょっとは安心して穏やかになられる方ではないかとも思っているんです。
シェイクスピアをなぜ出したかと言うと、数日前に訳しかけたダニエル・パイプス先生の文章に、あるムスリムが「自分はシェイクスピアを読むし、クラシック音楽を聴くし...」と言いつつも、同時に「シャリーア法も重要だと考えている」という、一見、矛盾するようなことを平気で並べる事例が出てきたからです。むろん、パイプス先生は、そういうムスリムを切って捨てているのではなくて、極力、理解しようと努めて書かれた文章です。
しかし、私としては、(え?シェイクスピアって『ヴェニスの商人』で、ユダヤ人を否定的に描いていることを、そのムスリムはどう思っているのかしら?)とびっくりさせられたことも、併せて書き添えておきます。