ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

根回し―日本文化の知恵?

十代、二十代の頃は、「本音と建前」「甘えの構造」「出る杭は打たれる」「根回し」などの、いわゆる「日本的習慣」とされるものを、かなり批判的に考えていました。「やっぱり、欧米人のように、論理的に考え、裏表なく主張していかなければ、近代化はまだまだ未達成」などと、今から考えれば何とも青臭いというのか、世間知らずというのか、単純過ぎるというのか、ブッキッシュの典型的発想というのか....。
当時(1980年代頃)、「甘えの構造」について、「自立心に欠ける」日本人を批判するのに都合よく引用されていました。
例えば、マレーシアにいた1990年代前半、実はなんと、マレー人の女性の先生までもが、「それって、日本人の甘えの構造じゃないの?」などと、見下げるようにおっしゃったことがあります。私の目には、マレー社会の方が、遥かに人間関係にもたれ合いがあるというのか、よく言えば相互扶助(ゴトン・ロヨン)なのですが、村(カンポン)の人達全員が擬似家族のような関係で、プライバシーもへったくれもなく、ずかずかと悪気なく人の生活圏内に入ってくるというのか、にこにこと人生に介入してくると言うのか....。でも、ふと生きることに疲れて淋しくなった時には、そういう生温かい関係が、妙に懐かしくなるという...。
話は少し逸れますが、その「生温かい人間関係」の一例として、初対面であっても、マレー人のおじいさんから‘adik, adik’と呼びかけられたことがあります。実はこの「おじいさん」、私の教えていたマレー男子学生のお父さんで、トレンガヌからバスを乗り継いで、やっと首都のクアラルンプールに出て来たのでした。政府派遣で、日本に留学する息子を空港で見送るためです。そのお父さん、私にすがりつくように、「うちの息子は、学校でどうだったか。まじめに勉強していたか。いい学生だったか」と、何度も確かめようとしました。いえ、すべてマレー語です。若かった私は、融通も利かずに、「はい、とてもいい学生でした。でも、そうですね、時にはさぼることもあったかもしれませんが、一生懸命に勉強していましたよ」。その一言が、うまく通じなかったようで、「え?それは、あの子が‘malas’だったということか?‘adik, adik' ...ねぇ、それはどういう意味なんだ?」と、真剣そのものに迫って来られたのです。
マレーの文化習慣では、お父さんの権限は絶大。当時はまだ貧しかったトレンガヌで育った息子が、政府のお金で勉強させてもらい、日本にまで留学できるのに、日本の若い女性教師から、「ちょっとはさぼることがあったかも」などと言われようものなら、自分にとっては面目丸つぶれで、大きな責めを負わされたような気になったのでしょう。
これも、青臭いほろ苦い思い出として、今も脳裏の片隅を彷彿とさせます。
話を元に戻しますと、実は、この歳になると、だんだんにわかってきます。どの文化であっても、人間社会である以上、どこでも、表向きの言動(社会性)と内心の真実の実感(プライヴァシー)が必ずしも常に一致しているわけではないだろう、ということを。これは、いかに‘プリミティブ’に見えるような人間集団においても、文化人類学の研究調査で同様の結論として裏付けられると、二十代半ばに学びました。
理論的な論文ばかりを読まずに、古典文学や芸術などに子ども時代から触れるようにしないと、本当に、人情の機微がわからない人間になってしまいます。
同時に、どの国に生まれたとしても、どんな時代に、どんな社会になるかは誰にとっても不透明なのだから、単に自分の得意な方面で実力をつけるという個人主義ばかりでなく、たとえ気の合わなさそうなタイプの人々とも、何とか折り合いをつけて一緒に協力しながら生きていけるような実践力も必要だと思います。
その意味で、両親に感謝しているのは、私の生まれ育った名古屋にも、いわゆる英才教育のような特別な学校がなかったわけでもなく、父の勤務先の同僚に、そのような所へ子どもを行かせた人がいたらしいのに、「いや、子どもは普通の学校で、いろいろな環境で揉まれなければならない。小さい時に、(実は大したことがないのに)変な特権階級をくすぐるような同じ階層だけで育つと、大人になってから生き抜く力が養われない」などと、よく議論していたことです。私に聞かせるためだったのか、単に時間がなかったので、目の前で話していたのか、それはわかりませんが、私なりにじっと聞いていました。その意味を、歳を重ねる毎に思い出すのです。
さて、「根回し」。
実は、先程ちょっと覗いてみたブログでは、アメリカのような国でも、合意形成に至るのに、「根回し」はとても大切なのだそうです。事前に話をして、同意を取っておくと、その後がうまくいくといいます。また、個人主義で実力競争社会であるアメリカにおいても、「出る杭は打たれる」のだとか。しかし、「こいつはデキルな」「これはカネになるな」と思ったら、どんなに‘変な奴’であっても、とりあえず守るのだそうです。従って、自分を切ったり叩いたりすると、相手にとって不利益が生じることを、具体的に強調するとよいとの由。
な〜あんだ、それって、日本と同じじゃないですか。結局のところ、キップリングが謳ったように、「東は東、西は西」ではあっても(参照:2011年10月9日付「ユーリの部屋」)、その根本原則を深く辿っていけば、要は似たようなもの、という面があるのではないか、ということです。
で、いくら競争社会で、業績が大事だからといって、勝手に一人であちこち走り回って仕事の数をこなしたとしても、履歴書が長くなるだけで、その内実がお粗末だったら、意味はありません。また、かき集めれば集めるほど、空回りする結果にもなりかねません。ましてや、ダブルブッキングや多忙による約束のすっぽかしなど、論外。何よりも、この世に生れて、人間社会の中で生きている以上は、結局のところ、もちつもたれつの関係。だから、表面的には「私はこの仕事をしている」というつもりでも、その影に、さまざまな形のいろいろな支えがあってこその、活動であり、仕事なのです。そこがわかっていないと、浮いてしまい、孤立してしまいます。
最も大事にしたいのは、やはり人間関係。それは、要領よく、誰とでもうまく合わせようと言うのではありません。距離を置いた方がいい関係もあるでしょうし、それが一時的なものか、永続的なものか、それもケース・バイ・ケースでしょう。しかし、「自分は自分」と割り切ってみたところで、周囲がそれを暗黙のうちに否定しているとしたならば、やはり、再考すべき点を含んでいるのかもしれません。
それに、対立する考えの人とも、事前によく率直なところを話し合っておいた方が、何かを始めた後にでも、不必要な摩擦や疑念を巻き起こす可能性が減るだろうと思うのです。その意味で、例えば、学会や研究会の後の懇親会は、お金を払い、時間もある程度とり、同じ場所で同じものを食べる、という共通条件の下で、相互の人間関係を築き上げ、公式には語り得なかったことも話す機会を作り出し、この先に予定している計画をそっと示唆し、新たに同志感覚を共有し合う、大切な時空間だろうと思うのです。
「自分は発表のために、ここに来た。他にも仕事があって忙しい。自分の責任を果たしたのだから、あとは自由だ」と割り切ってばかりいたら、いくら丁重な姿勢であったとしても、どこかぎこちなさが残るのかもしれません。
このブログを書き始めた理由は、まさにそれです。年に二、三回程度の口頭発表、しかも、たかだか二、三十分のお話だけでは、私がこれまで経験してきたことの意味と含意が、充分に伝わると期待する方が無理というものです。しかしながら、白黒はっきり決着をつけがたい、世の中のグレーゾーン、理論的には正しいのだけど、人間の自然な感情としては意に添い難いという抵抗感のようなもの、公的な場ではそう言わざるを得ないけれども、本当の意味はこうなのだ、ということ....それらは、おそらくは、論文ではなくエッセイ、学会発表ではなく自由な会話やさり気ない態度のようなもので、吐露されるのではないでしょうか。
「根回し」のよさは、事前に一対一で打ち明けることで、相手を信頼していることを証左する機会にもなるからです。また、それまで知らなかった相手の一側面や経験などを、新たに学ぶこともあります。「これから私はこういうことを新たに始めます。表向きは、こういう形式で現れます。しかし、水面下では、私なりに、さまざまな考察や準備や分析や戸惑いのようなものを経験してきました。いかがでしょう?お考えは異なるかと思いますが、こちらの立場は立場として、ご理解いただけますでしょうか」。
このような会話が、率直に交わされるということ、それこそが、人間社会のかなめとして、重視されるのではないかと思います。暗黙の了解、行間の読み取り、思想や見解の違いを超えた理解、そのようなものに、私は期待し、信頼したいと願っています。
イランの問題についても、そうです。小学校か中学で、ペルシャ文化の遠跡が、古代日本の寺院(飛鳥寺でしたでしょうか?)に表現されていると、習った記憶があります。だから、今だけを見るのではなく、そのような文化史感覚を決して忘れたくはないと思うのです。そこが、地球が丸いということの深い示唆であり、人間に流れる血が皆、同様に赤いということの意味だと。