ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

サッチャー女史のことを考える

サッチャー女史の映画を見ていて、正直なところ、どういうわけか、最初から最後まで涙が流れて仕方がありませんでした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120325)。シーン毎に感情が内側で激しく波打つように起伏し、両目が文字通り疲れてしまったのは、そのためです。
彼女のファンだったというのでもなく、ほとんど何も知らないままに、ただただ、あの時代の英国を少しでも理解できたならばという一心で、新聞広告に惹かれて、主人を誘って見に行ったまでのことでした。それなのに、です。
帰宅後、夜になってから、you tubeで、彼女の堂々たる見事な演説ぶり、国会での颯爽たる議論の断片を見てみました。インタビューでは、昔はういういしくて可愛らしい話し方だったのに、だんだん年齢を重ねるごとに、場数を踏むというのか、男勝りの闘争的な側面が表に出てきたように思います。もしかしたら、ご主人は、恥じらうような愛らしいマーガレットさんを妻にしたつもりだったのではなかったか、とも思いました。
ともかく、私が最も悲しく感じたのは、彼女の一途さ、一本気なところでした。保守的というのは、中道左派やリベラルと比して、決して悪い意味ばかりではないと私は信じたいですし、確かに、猛烈な反対を押し切って断行した数々の彼女の改革は、結果的に、実を結んだところがあります。しかし、なぜ深い哀しみを誘うのか、と言えば、たとえよい結果が出たとしても、それに伴って水面下に押しやられたのであろう、さまざまな犠牲や負の側面も彷彿とさせるからです。
つまり、正論を断行すれば、それが真っ直ぐに通るばかりの世の中ではない、ということです。もちろん、私自身も、どちらかと言えば正論を前面に出す方ですし、曲がったことや偽善的な態度が嫌いです。その点では、非常にストレートな性格なのですが、その私にしても、サッチャー女史を「女史」たらしめるものは何かと思うと、つい、後さずりしてしまい、怯むところがあるのです。
自分の信念を真っ直ぐに語り、それを実践する、と言えば聞こえはいいのですが、時には、文脈から、その含意するところを充分に考えなければなりません。当然、相反する立場のことも深く考慮した上で、どうしたらウィン・ウィンの関係でいられるかを模索していくのが、大人のやり方でしょう。
その意味で、世の中がより複雑になり、人々がさまざまに交流するようになった現代、これさえあれば、というような硬直化した考え方は、多少、時代遅れなのかもしれません。
彼女について書かれた本を、もっと読まなければならないのでしょう。そして、ゆっくりと考えてみたいと思います。