ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

これも人生と...

昨日と今日、今週末の学会発表用の資料探しを兼ねて、畳二畳以上に積み上がった複写物を整理し直しました。おかげさまで、数年前から集めていた、ほこりをかぶった文献も出てきて、悲喜こもごも。
簡単に理解していただこうという甘えは捨てるとしても、21年前のマレーシア滞在中で気づいた問題意識に基づくリサーチ、実際のところ、こんなに長くかかるとは当初は予想だにしていませんでした。
「それだけ集めたなら、何本でも書けるのに....」とよく言われますが、実は、あっちにちょこちょこ、こっちにちょこちょこ、しかも大雑把だったり不正確な記述、という事例も少なくなく、しかも、時間をかけて集めた割には、日本語にすると全然大したことのないような気がしています。エッセイのようなものならば書けるとしても、毎度、あまり精神衛生上、よくありません。
パワーポイントを作るにしても、実物そのものをロンドンやニューヨークにまで飛んでアーカイブを見るわけにもいかず、結局のところ、一度のフィールド旅行で複数のテーマを兼ねて写真を撮ったり文献を見つけたり、普段から各地の図書館で関連文献をこまめに集めておき、ある程度のところで、何年か分をまとめて口頭発表に使うことになります。難病患者を抱えて暮らす、限られた私の条件では、そんなやり方でしか、進めようがありませんでした。
(たったこれだけなのに)と思っていたら、ある先生が、「たったこれだけ、ということは、それほど問題が深刻だということではないでしょうか」「資料集め、大変だったでしょう」と言ってくださいました。今でも、本当に感謝しています。
また、別の先生からのメールも見つかり、「決してお遊びではありません。大事なことです。何か、与えられた使命があって、このようになったのでしょう」という意味の励ましも、送ってくださっていました。
励ましと理解というのは、本当に大切です。ただただ、「成果」として目に見える形を押すばかりが励ましとは限りません。置かれた状況の共感的理解が伴うかどうかだとも思いました。
難しさの一つは、現在も問題が引き続き発生していること、海外の著名な二次文献では既に、植民地時代のマラヤでマレー・ムスリム伝道を行っていた宣教師はごく限られ、ほとんど成功していないとも書かれているのに、発表を始めた10数年前には、それさえ半信半疑だったようなコメントがあり、緊張を強いられたという経緯があります。戦時中から日本では、マレーシアに関して、マレー研究やイスラム研究の方が、少数派のキリスト教研究そのものより主流だったためもあるかと思います。数年前に、「マイナーだけど重要な」と(皮肉っぽくも)言われたことがありますが、本当にある程度きちんと書くには、こんなに手間暇がかかるものだとは、我ながら驚きです。
何も知らないところから手探りで始めた上、すべて自費なので、不利益やフラストレーションも相当なもの。でも、これも人生と割り切らなければなりません。少なくとも、発表が続くということは、ありがたいことだと思っています。