ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

もう一歩だけ考える機会に

結論から言えば、とても悲しくて仕方がない。
Aという立場の方の論文数本を読み、直接お話もうかがった後、対するBという立場の著書を何冊か読み、ボーダーラインの身で、できる限り公平に考えてみようとした結果。当該事項そのものに関しては、両者共に、相応の主張と理由がわかります。そして、恐らく、少なくともしばらくは、互いに平行線を辿るのだろう、とも。
これまでの私がなじんできた考え方は、実はB。伝統に沿ったもので、他の考え方をよく知らなかったから。大枠において、借りた本もすぐに読めてしまい、内容にそれほど違和感もない。ただし、部分折衷のやり方を経験的に知っているので、絶対にBのみとは言えず。
だからといって、Aという立場を糾弾し、排斥してもよいのか。断じてそれはノー。複雑な状況の中で、どのように対処していくべきかは、それほど単純に一つの物差しでは切れないものだから。それに、私自身、そのようなやり方や考え方を採用している場を、既に知っているから。
そうはいっても、正直なところ、Aという考え方に慣れるのには、しばらく時間がかかりそう。現代的で新しい潮流だからということと、専門外だから、という理由から。でも、そもそも無関心だったら、ここまで悩むこともなかっただろうし、もっと気軽に「我関せず」と、開き直れたのかもしれません。


しかしながら、事の本質は、実はそこにない、と知った時、(あぁ、やっぱりか)という思いと、(それにしてもひどいなぁ)という恐ろしさの両方。自分自身が当事者ではないのに、なぜか本当に悲しくて、気持ちが沈んだ。とても衝撃的だった。全体主義的な一律の思考に対する嫌悪感から、というのが一つ。二つめに、仮に善意のようなものや慣れ親しんだ考え方からだとしても、そんなやり方はないんじゃないか、という...。

そして、ひどい落胆。そういうことをやっているから、人が来なくなり、来てもすぐに離れていってしまうのでは?そして、もし何もなく、健全な状況にあったならば、もっと仕事領域も広がり、質量共に、さらに充実していたのではないだろうか、と思うと、人ごとながら、残念でならない....。