ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

トルコのギュレン運動

以下のトルコの「ギュレン運動」に関しては、「ユーリの部屋」(2008年9月25日・2008年10月28日)をご覧ください。

メムリ」から(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP324210


・緊急報告シリーズ Special Dispatch Series No 3242 Oct/9/2010


「トルコで、政権与党AKPとギュレン運動の亀裂が浮上」


アナリスト、エムレ・ドウル(Emre Dogru)は2010年8月31日、トルコの主要ニューズ・ウエブサイト、フリエト・デイリー・ニューズ(Hurriyet Daily News)にオプエド記事「トルコ:浮上する公正発展党(AKP)とギュレン派の亀裂」を発表し、トルコの2つの重要なイスラム運動である(政権政党の)公正発展党(AKP)とギュレン運動との間に亀裂が浮上していると指摘した。ドウルは序言で、こう述べる。「政権党AKPとギュレン運動は、トルコの軍部と司法部の、国民に選出されたわけではない世俗的イスタブリッシュメントの権力を掘り崩すことで同盟してきたが、この関係がほころびを見せているようだ。両勢力の相違の根本にあるのは、国際舞台におけるトルコの適切な役割(とされるべきもの)、及び、トルコ軍部を政治から排除していくスピードである」


以下は、ドウルの、英語がオリジナルのコラムである。


「AKPとギュレン運動(の関係)は近い将来、破れそうにない。しかし、両者のパートナーシップの性格は、双方の目的が分岐するにつれて変化しそうだ」
「トルコ軍部の世俗主義イスタブリッシュメントの権力を抑制する憲法改正国民投票を前に、政権党の公正発展党(AKP)とギュレン運動━その指導者、イマームフェトフッラー・ギュレン(Imam Fethullah Gulen)の名前を取った、トルコの影響力の大きい宗教コミュニティー━の亀裂の最初のサインが表面化した。両者の間には長く見解の相違が存在してきたが、最初の緊張が表面化したのは(パレスチナの)ガザ地区への支援船団事件がきっかけだった。そして、この緊張は、AKPが将官の昇進人事に関して軍部に妥協する決定を行ったことで加速された。


「これら2つのグループは長く二人三脚で、軍部と司法部の、選挙で選ばれたわけではない世俗主義エリートの権力を掘り崩すために働いてきた。しかし、AKPは、ギュレン運動と連合することが自らを過激に見せ、その政治的将来を危うくすると理解し始めているようだ。一方、ギュレン運動側は、AKPが軍部と司法部とやり合うにあたって慎重すぎると考えている。同時に、かつての政治同盟者(AKPの意)が権力の座にある間に、トルコの制度に根本的変化をもたらすことを望んでいる。(したがって)AKPとギュレン運動は近い将来、壊れそうにない(し、その事態が9月12日の憲法改正国民投票前に起きないことは確実だ)。(しかし)両者のパートナーシップの性格は、双方の目的が分岐するにつれて変化しそうだ」


軍部のトルコ政治介入に関する(AKPとギュレン運動の)見解の相違


「AKPが2002年に政権を握った時、ギュレン運動の利益は、イスラム主義を根本に持つAKPと大きく一致していた。(当時)ギュレン派はAKPを、それを通じて同派の目標を達成する政治的手段と見ていた。双方には宗教上の繋がりがあり、また、両グループは強固な世俗主義を採る軍部に対し、トルコにおけるシビリアン・オーソリティーの確立を目指す非宗教勢力と共に、立場を同じくした。これら勢力はトルコの伝統的権力中枢、つまり軍部から脅威を受けていた。AKPは軍部との闘争にあたって、ギュレン派支持者の票とギュレン運動の広範なネットワークの助けを得ていた。(同ネットワークは、ギュレン派が数十年かけて構築したもので、同派メンバーはさまざまな政府機関のキーポストに存在する)。事実、軍部の複数の対AKP政権クーデター疑惑━エルゲネコン(Ergenekon)、大ハンマー(Sledgehammer)、檻(Cage)の諸事件━で、多くの証拠をリークしたのは、政府機関内のギュレン派ネットワークと思われている。


「しかし、AKPに対する軍部の脅威が次第に弱まり、また、AKPが政府に対するシビリアン・コントロールの優位を確立するにつれ、AKPとギュレン運動の間には、トルコの政治問題に対する軍部の影響力をどこまで押さえ込むか、をめぐって亀裂が浮上した。


ギュレン派は軍部の政治への影響力を掘り崩すため、10年間にわたって努力を続けてきた。この努力は、軍部がこれまでに、民主的に選出された、複数のイスラム主義政権を転覆したことへの対抗策だった。軍部はイスラム主義政権を倒すにあたって、トルコ憲法の原則━世俗主義を国家の基本に置くという憲法の原則━の侵害を挙げてきた。ギュレン運動はこの経緯から、AKPが軍部に対し、より強硬な路線を取ることを期待した。一方、AKPは物事を政治的に処理するため、軍との間で、互いに役に立つ関係の維持を望んだ。また、ギュレン運動とAKPの双方は西側に対し、自分たちが「過度にイスラム主義的である」と見られないよう努力している。このため、双方は互いに距離を置く道を公に採り始め、また、そうした亀裂を利用して、一方が他方より一層プラグマティックであるように見せようとしている。


政権党AKPとギュレン運動の亀裂を示す諸事件


「亀裂の兆候が最初に表面化したのは、ギュレンがトルコ政府の決定━イスラエルの封鎖を破るためガザ地区に向かう支援船団の出航を許可した決定━に公然と反対した時だった。支援船団の試みは、5月31日イスラエルがトルコの船団を襲撃し、トルコ人9人が死亡する結果となった。


ギュレン発言の狙いは、ギュレン運動の国境を超えた性格を内外に示すとともに、この問題に関するAKPの強硬な公式スタンスに過度に結び付けられるのを避けようとしたものだ。また、ギュレンはこの機会を捉え━世界を股にかけた、ビジネスと(トルコ語などの)学校(設立)の運動である━ギュレン運動がAKPよりもプラグマティックで、西側にとって受け入れうる運動であることを示そうと図った。つまり、ギュレン運動が純粋なイスラム主義のアジェンダを追求しているという一般の批判に反駁しようとしたのだ。


「(AKPとギュレン運動間に)さらなる違いが浮上したのは、文民政府と軍部のメンバーで構成する『高等軍事評議会(YAS)』が8月1日開かれ、軍首脳部の人事を決めた時だ。これに先立ち、トルコの法廷は、軍士官102人の逮捕状を発出していたが、その中には、昇進が見込まれる将軍たちも含まれていた。軍部人事は伝統的に軍部の専権事項であり、逮捕状の発出は、軍部の立場を弱め、AKPが軍部人事を決定できるようにすることを意味していた。しかし、逮捕状が出された102人のうち、拘束されたのは1人で、しかも階級の低い士官だった。ギュレン派は逮捕状の執行を促したが、AKPは逮捕状を無効にし、昇進問題で軍部と妥協した。ギュレン派はまた、士官団を逮捕しなかった司法相と国防相の辞任を要求したが、AKPはこれを無視した。


「ギュレン運動は(AKP政権が)逮捕状を無効にしたことを怒った。同運動はこれに先立ち、AKP主導の憲法改正国民投票に支持を誓っていた。改正点は、世俗主義者が牛耳る『憲法裁判所』と『裁判官・検察官高等審議会(HSYK)』の構成の変更だった。AKPは、この改正によって両機関の民主化が進むと主張するが、反対派は、この一括改正によって、ギュレン派の高級裁判所への浸透がより容易になり、その結果、AKPの司法権限が強化されると言う。


「ギュレン派とAKPの緊張は、国民投票に向けて増大しつつあるように見える。また、ある傑出した警察長官が最近出版した著作が(政府の)枢要な機関、とりわけ警察諜報機関内部へのイスラム主義勢力の浸透をめぐって、波紋を広げている。著者がこの本で、治安機関へのギュレン派の浸透を詳細に描いたからだ。この本の、国民投票の数週間前という発表のタイミングの狙いは、AKPとギュレン運動の関係を損なうことにあった。AKPは今や、同盟者であるギュレン派を資産であると同時に負担とも見なし始めている。ギュレン派が辞任を要求した司法相は最近、この本で挙げられた容疑は、真剣に捜査されると語っている。


「AKPは9月の国民投票、また2011年7月の国会選挙でも、ギュレン・ネットワークの支援を必要としている。しかし、投票後は、ギュレン運動の影響力の削減を図る試みを一層活発化しそうだ」

(引用終)