ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

教育問題と哲学思想の基盤つくり

11月に宿泊した首都圏のビジネス・ホテルでは、宿泊客に無料で『讀賣新聞』を置いていました。好きなように一部とってよいのだそうです。普段は、何か気になる事件があった時のみ、比較材料として近所の図書館でしか読まないので、これはありがたいサービスでした。ただし、一つだけ難を申せば、読む箇所が少ないことです。興味深く、赤線を引いて切り抜いて何度も読める記事が、極端に少ないのです。

その中で、私が保存した二つの記事があります。2009年11月23日付「社説:論理的な思考力を鍛えよう」と、同日の山崎正和氏の「地球を読む」でした。
例によって、要点を書き抜いてみます。まずは、社説から。

・「哲学」の語源はギリシャ語の「フィロソフィア」(知恵を愛する)に由来する。
・明治時代の初期、賢哲の明知を愛し希求するとの意味で「希哲学」と訳され、さらに「哲学」と呼ばれるようになって定着した。世界の根本原理を追究する学問だ。
・思考力や論理性を徹底的に鍛える哲学教育の推進は海外で大きな潮流となっていることを見逃してはならないだろう。
・幸せとは何かといった思春期の子供たちが抱く素朴な問いは、古今東西の哲学思想との出会いにつながる。新しい生命倫理の問題など現代の複雑な課題に向き合う上でも哲学的思索は欠かせない。
・フランスでは高校の最終学年で哲学の基本が徹底的に教えられ、大学入学資格試験には哲学の難題が出題される。

次に、劇作家の山崎正和氏の「高校無料化」に関する意見文を抜粋いたします。

・かつて意欲と努力を必要とした進学が、いつのまにか社会の惰性となり、生徒がただ何となく上級学校をめざす風潮が広まってしまった。
・これと並行して、戦後の義務教育には学力を確認する関所がなくなってしまった。
・高学歴化が惰性となり、学習に試練がなくなったおかげで、起こったことは人生のモラトリアムの長期化であった。得意な教科がなく、とくに「できること」もなく、したがって「何がしたいか」がわからない生徒がめだつ。人間は何かできることがあって、初めてしたいことが見つかるものだから、学力不足は目的意識の喪失につながるのである。
・そこに「自分探し」などと無責任な美辞を教えるおとながいたために、多くの青年が将来のビジョンもなく育つことになった。青春に通過儀礼がなくなり、必要な知識の「ナショナル・ミニマム(最低の必要量)」もなくなったために、おとなになれない若者が実人生を先送りしているのが、高学歴化の実態ではないのか。
・かつて農家の子は田畑で、商家の子は店先で、さらに多くの子は職人の仕事場で働きながら学んでいた。そこでは技能を教えるだけでなく、国語や算数も教え、何よりもしつけと職業倫理をまなばせていた。特別の向上心を持つ若者を除いて、義務教育修了者は実社会で勉強したのであった。
・高校全入は時代の必然などではなく、熱にうかされた一時の流行ではなかったのか。そういう根源的な疑いを抱いて見るのが、いまもっとも切実な教育改革の出発点のような気がしてならない。
・もちろん学問が好きで能力もあり、しかし貧しくて高校に進めない若者がいるのは不公正である。そういう人材は十分に選抜したうえで、授業料免除だけでなく、生活を助ける奨学金も与えるべきだろう。
・しかし勉強は嫌いだが勤勉であり、各種の手仕事に優れている若者を国が援助しないのも、同じく不公正ではないか。現にほとんどの手仕事の職場は後継者を切望しているし、料理や美容やファッション関係など、若者の側が憧れる手仕事も多い。
・それにしてもすべての前提になるのは、国民の基礎学力の充実である。
・すでに新聞のトップ記事を読み通す根気がなく、そのことを恥ずかしげもなくテレビで口にする社会人もいる。いわゆる活字離れも読書離れも、多くは国語能力の不足に起因しているように見えるのである。
・必要なのは専門家の検討と、国民合意の結集を急いで、今日のナショナル・ミニマムが何であるかを、あらためて決めることである。それが、たぶん「読み書き、算術」であることは、ギリシャ以来の伝統から見てほぼ確実に推察できる。

《以上》